衆生はみな本覚を有しており、それは如来の智慧徳相です。衆生は無明を有するがゆえに、この本覚をずっと発見できずにいました。この本覚を発見すれば、無始無明を打破して覚悟を始めることになります。これが始覚であり、覚知心が覚悟を始めたもので、始覚と名付けます。始覚は本覚に依って有り、始覚の対象は本覚であり、しかも本覚という助縁がなければ、覚知心も覚悟を始めることができず、それなら始覚もないことになります。始覚の前は、覚知心の不覚です。無明を有するがゆえに、覚知心は本覚を覚悟できないのです。そしてこの覚知心の不覚もまた本覚に依って有り、不覚の無明種子は本覚の中に存在しており、不覚の覚知心は本覚に依って出生したものなのです。
本覚とは、もともと覚悟しているものであり、無始劫以来、一度も迷惑顛倒したことがありません。これが第八識如来蔵です。私たちはよくこう言います。真如は知ることなくして知らざることなし、覚えることなくして覚えざることなし、念ずることなくして念ぜざることなし、と。真如とは本覚であり、神様は一法として知らないことはなく、一法として覚えないことはなく、一法として念じないことはありません。もし一法でも、神様が知らず覚えず念ぜなければ、その一法を変現して現出させることもできず、相応の種子を輸送することもできません。そうなれば、この一法は形成されず、出現することもないのです。
一つでも知らないことがあれば、それが無明です。本覚には無明がなく、神様は何もかも知り尽くしています。しかし神様のこのような知は、七識心の那种知とは異なり、その体性は七識心とはまったく異なっています。七識の知は、六塵の境界に限られ、せいぜい如来蔵の理、世出世間の理を知る程度ですが、これも法塵であり、それ以外のことは、七識心は何も知りません。本覚の知は、三界のすべての法を含み、世出世間の法で、知らず覚えず念ぜないものは一つもなく、実に不思議です。神様の知を探究すればするほど、三界宇宙の万有の来龍去脈がますます明確に分かるようになり、私たちの智慧はますます高まり、ますます本覚に相応していくのです。
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