衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年04月28日    土曜日     第4 回の開示 合計427回の開示

真覚の平等覚性と妄覚の平等覚性

覚には真の覚と妄覚がある。妄覚は七識心であり、真の覚は如来蔵である。七識心は常に六塵の世俗法を覚知し、妄念が生じた、貪瞋痴がある、戒行を犯したと自覚し、その後にこれを改め、改めたことを以て覚りと為す。実はこの覚りは依然として七識心の覚りであり、当然ながら妄覚であって真の覚ではない。真の覚とは真如如来蔵のことで、それは決して六塵の境界を覚知せず、五陰に妄念があるか否か、過ちを犯したか否か、貪瞋痴があるか否かを知らず、またこれを改めることもなく、これらのことを一切行わず、永遠に六塵の諸境界法を分別しない。故に六塵が現前する時、真の覚は永遠に清浄無為であり、妄覚のみが有為あるいは不浄である。この二つの覚を我々は仔細に分別しなければ修行に励むことはできない。

平等の覚性にも二種あり、一つは第八識如来蔵が本来具える覚性を指し、もう一つは後天的に修行によって生じる覚知心の平等覚性である。真の平等覚性は先天に存在し、永遠に変化せず滅びることなく、衆生が如何に貪瞋痴を生じようとも如来蔵の覚性は消失も隠蔽もされない。未悟の衆生が我ありと執着して染汚業行を造作しても、その平等覚性は消失せず、如来蔵は根本的に滅びることがないからである。

ただ衆生は虚妄を認めて真実を見ず、あるいは真実を顧みず、一時的に平等の覚性が存在し作用していることを発見できない。これが衆生の無明である。無明あるが故に、衆生の如来蔵はあたかも隠れた如く見えるが、実際は隠れたのではなく、まして如来蔵が無いのではなく、衆生自身に無明があり、覆い障りがあって見えないだけである。悟った者にとって如来蔵が自ら顕現するのではなく、衆生が無始の無明を破り、心が迷わなくなった故に、常に如来蔵の機能作用を観察できるようになる。故に如来蔵の平等覚性の隠顕は人によって異なる。

後天的に修得した覚知心の平等覚性は、七識心が一分の染汚を除いた後の覚性であり、生滅変易するもので、存在する時もあれば消失滅びる時もある。生があれば必ず滅があるからである。無我の覚受も意識が観察を重ね、五陰が無我であると知るもので、これは意識心の覚受であって如来蔵心本来の無我覚受ではない。

意識心の無我あるいは意根の無我は、深く禅定を修した後に観行参究して初めて証得できる。六七識が五陰中に無我、十八界中に無我、蘊処界の和合によって生じる一切法に無我を観照し、これらの法中に無我性を確認することによって大小乗の果位を証得し、将来解脱を得て究竟の仏果を成就する。先天の平等覚性と後天の平等覚性、この二種の平等覚は極めて貴重であり、前者がなければ後者も存在せず、後者の覚受を得れば解脱と仏果の成就が可能となる。

——生如法師の開示
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