瑜伽師地論の第一卷において、声塵は多くの種類に分けられ、自身の如来蔵による執持の有無によって三種に分類されます。第一種は、自身の如来蔵が単独で執持する声であり、因執受大種声と呼ばれます。例えば自身の発話音、咳の音、呼吸音、内臓器官から発せられる音などが該当します。第二種は執受と不執受の大種声が混合したもので、自身の身体が外界の物質と接触する際に摩擦によって生じる音です。歩行音、物を扱う音、衣類の摩擦音、身体と物質の衝突音など、これらは自身の如来蔵と外界の物質が作用して発する音です。第三種は不執受大種声によるもので、この種の音は自身の如来蔵が単独で執持・制御するものではありません。宇宙の天籟の音、風雨の音、雷鳴、海や河川の流れる音、各種機械の音など、これらは共業衆生の如来蔵が共同で執持するものです。
声の内包する意義はさらに多く、その属性も多様であり、声の帰属を厳密に区分することは極めて複雑です。これら全ては如来蔵の作用によるもので、その大多数は共業衆生の如来蔵が共同で執持・作用した結果であり、また地水火風の四大の生滅変化によって生じたものです。至る所に如来蔵の機能作用が遍在し、五陰自体に真実の作用は全く存在しません。故に全体が即ち真如なのです。如何なる者も、如来蔵の七大種子の機能作用に属さない事物や法を見出すことはできません。全ては如来蔵の作用に帰し、その功績は如来蔵に帰するのです。七識心すらも如来蔵に依存して広く衆業を造り、如来蔵は無分別に全ての事柄を管理し、決して分別せず拒絶もせず、求めに必ず応じます。千箇所で祈れば千箇所に応じ、事ある所へ即時に対応し、来も去りもしないと称される所以です。
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