身・口・意の行為は、現れた瞬間に業となります。身とは身体の行為的造作、口とは言語の行為的造作、意とは七識心の思想的造作を指します。いかなる衆生であれ、行為的造作があれば必ず業を有し、果報を受けることになります。その善悪性と軽重性は、身・口・意の行為によって決まります。身体の行為には善悪と軽重があり、言語の行為にも善悪と軽重があり、七識心の思想的造作にも善悪と軽重があります。それ故に果報もまた善悪と軽重を伴うのです。意図的な行為には意図的な果報が、無意識の行為には無意識の果報が伴い、果報を受けない行為は存在しません。意業を犯さない、あるいは極めて軽微な者とは、貪・瞋・痴の煩悩を断じた第三・第四果の聖者及び地上の菩薩に限られ、それ以外の者は皆意業を犯します。口業は身業よりも犯しやすく、多くの者は言葉に慎みがありません。身体で業を造る者は比較的少なく、もし身行で多く業を造る者がいれば、それは貪・瞋・痴の煩悩が極めて重い者です。
身・口・意の行為によって造られた一切の法は種子として収蔵されます。聡明さや智慧を収蔵すれば、来世において同様の事柄に対しても依然として聡明智慧を具えます。理解できなかった事柄は、来世においても依然として理解できません。あらゆる事業は、善悪あるいは無記を問わず、如来蔵が全て記録収蔵します。何一つ無駄な行為は存在せず、為したことが無に帰することはありません。発した言葉も無駄にならず、後々必ず果を結び、清算がなされます。
業種は因縁が具足して初めて現行します。無量劫の業種が一時に全て現行することはなく、どの業種が先に熟するかによって、その業の果報が先に実現します。もし全てが同時に現行すれば、善悪が交錯し、喜楽と苦悩が入り混じった果報が現れ、因果関係は一層錯綜した様相を呈することでしょう。
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