衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年04月16日    月曜日     第5 回の開示 合計365回の開示

「仏陀はなぜ無余涅槃における第八識を見いだせないのか」

無余涅槃においては五蘊身が存在せず、第八識は依り所を失い、自らの行相を顕現することができません。運行する行相がなければ、仏のいかなる識も第八識を発見することは叶いません。

第八識を見出し観察するには、五蘊身において行う必要があります。五蘊身における第八識の働きを観察せねばなりません。五蘊身がなければ第八識を観察できず、あたかも風を観察する際、樹木や物体を通じて風を観察せねばならないのと同様です。樹木も物体もない虚空に風が存在しても、それは表現され得ません。第八識の情況も風と同様であるべきです。

無形無相のものは、有形有相の法を通じて初めて顕現されます。そうでなければ、無形無相のものは如何にして発見され得ましょうか。例えば風を発見するには、肌に感じる涼しさや清涼感、衣が揺らめく様、樹木が揺れ動く様、物体が移動する様を通じて初めて風を認識します。もし五蘊身がなければ、如何にして風を発見できましょうか。外界の樹木や草の揺れがなければ、如何にして風を感知できましょうか。風を発見するにはこれらの物質色法において、風の運行する行相や動性に求め、物体の飄動性に求め、身体に吹き付ける清涼感・凉爽感・寒冷感あるいは熱感を通じて風を認識するのです。

第八識を見出すことも同様の理法に従います。五蘊身の運営を通じ、五蘊の活動を以て感知せねばなりません。五蘊の活動があるということは、第八識が色身を執持し維持し運転していることを示します。五蘊身がなければ第八識は顕現できません。

仏は十二因縁経において説かれました。「名色の二者は相互に依存し、名色は識を縁とし、識は名色を縁とする」と。名色とは五蘊を指し、識とは阿頼耶識すなわち第八識を指します。五蘊は第八識を縁として初めて運営され、第八識がなければ五蘊は存在し得ません。「識が名色を縁とする」とは、阿頼耶識が五蘊身を縁として初めて自らの存在と運行を顕現し、五蘊身がなければ第八識は運行し得ないことを意味します。

——生如法師の開示
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