もし自分を知りたい、自分の心念が果たして善なのか悪なのか、染汚なのか清浄 (viśuddha/pariśuddha) なのかを知りたいなら、どうすればよいのでしょうか。なぜ多くの人が、絶え間なく自分の染汚な心行、煩悩の心行に随順して、染汚の業行を造作し続けることができるのでしょうか。それは、覚悟する性質がなく、気づく力がなく、自分の一つ一つの心行・心念の結果が何であるのか、どのような果報があるのかを知らず、また考えようとしないからです。ただ感情を発散させたいだけで、心が気持ちよくなれば満足し、今後非常に不快で極めて不快になるかもしれないことは、もう構わないというのです。これこそが衆生の愚痴・無明と短視です。
どうすれば自分の心行・心念に覚醒できるのでしょうか。まず因果を信受し、次に因果を明らかに理解し、すべての身口意行には因果があることを知り、因縁が成熟すれば必ず善悪の果報を受けること、人に対しても事に対しても自分が行ったすべてのことは、最終的に自分自身が受けなければならないこと、善をなせば善報を受け、悪をなせば悪報を受けること、これは逃れられない因果の法則であると知ることです。そうすれば、意識的に自分の身口意行に注意を向けるようになります。しかし、定力と慧力 (prajñā-bala) が不足しているため、往々にして習慣的に不善の身口意行を造作してしまい、しかも自覚的に知ることができません。
そこで定を修めて定力を補い、反観力 (pratyavekṣā-bala) を高め、心を細やかにし、観察力を鋭敏にして、いつでも自分の心念を捉えられるようにし、さらに内心の最も深いところにある思いや考え、あるいは煩悩の念頭まで観察できるようにしなければなりません。そうすれば、深く透徹して自分を理解することができます。たとえすぐには不善の心念を改められず、自分の煩悩を降伏できなくても、知った以上は、日を経るうちに必ず少しずつ、こっそりと自分が変わっていき、自分自身でもその変化に驚くことさえあるでしょう。
定慧斉修、定慧等持の四念処の観行 (vipaśyanā-caryā) を通して、自分の定力と慧力を増し、覚性を高めることができます。そして日常の為人事の中で、自分の心念を反観し、自分の内心の奥深くにある本当の考えを反観し、それから自分に問うのです。このようにすることは人に対しても自分に対しても何の益があるのか。どのような結果をもたらすのか。この結果は自分にとって解脱なのか束縛なのか。このような結果を将来受け入れることを望むのか、受け入れられるのか、と。
自心を観察することと四念処の観行は同じ道理です。四念処は定に始まり、慧に終わり、その目標は慧であり、慧が生起してこそ我見を断して証果し解脱できるのです。自分の心念を観察する場合も同様で、観察の結果は何でしょうか。結果は、自分を知り、結果を知る智慧が生起することです。この智慧があれば、必ず煩悩を降伏し断除でき、将来は善業の快楽の果報を享受することができます。起心動念は一人の禍福を決定します。心念が悪く不善であれば禍を招き、福を損ないます。心念が善であれば福を生み、災禍を免れます。多くの人は、種々の順境・逆境に出会っても、それが一体何によるものなのかを知りません。心の粗い人は、そもそも何によるのか考えようともせず、逆縁・逆境は自然に有るものだと考え、自分の業行が招感したものだと知らないのです。自分の悪い不善業のために、福は長く存続できず、禍から免れることもできず、人生の苦海の中で波立ち揺れ、境に随って沈浮するのです。
もし自心を観察しなければ、慧は生起しません。意識が動いて心念を観察しなければ、法を現量で意根に呈示して、意根に如実に直面させることができません。直面した後、意根は法に留意し専注するようになり、思量 (manasikāra/manana) が生じ、如理に思量した後には一つの結果が生じます。もし意識が観察せず、心が散乱していれば、意根は所観の法に住することがなく、法を知らず、法を証することもできません。意識に禅定がなく散乱した観察では、意根はやはり散乱して攀縁し、所観の法に集中できず、如実に法を観察し思量することができず、法を知らず、法を証することもできません。だからこそ、過去の禅師たちや仏在世時の弟子たちは、いずれも意根の法を理解していなかったにもかかわらず、やはり明心して証果できたのです。それは彼らがみな甚深の禅定を有していたからです。
もし自心を観察しなければ、六識・七識はこの法上に作意せず、その後の触・受・想・思の心所法の運行もなく、定心所と慧心所の出現もなく、当然何も知ることができません。自心を観察しなければ、念に随って流転し、私が念であり、念が私であり、その中に身を陥れて自ら抜け出すことができません。「知」の一字は非常に重要です。心念は賊のようなもので、家に賊が入ってきたら、知り、覚り、彼を見張らなければなりません。賊は発見されたと知れば、恥ずかしくて物を盗むことができず、うなだれて立ち去るでしょう。
だから、境界が来たら知り、心念が現れたら知り、境界に随って走らず、心念を流転させ続けないようにして、正知を保つのです。以前は知らず、愚痴のあまり犬が肉塊に飛びつくように、人が石を投げれば追いかけ、音がすれば狂ったように吠え、風吹草動であることを知りませんでした。人と痴犬には何の違いもなく、終日境界を真実として、心を動かし念を生じ、人我・是非、我高し汝低しと、一口の食を争うために、頭が血で真っ赤になるまで殴り合うのです。衆生は憐れであり、また悲しいものです。自分を変えるためには、自心を観察する功夫を多く積まなければなりません。
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