個人崇拝を行わず、いかなる個人をも絶対視せず、理にかなって真実のままに仏法を観行できるならば、それがすなわち法による依り処である。法に依ることは甚だ難しい。深遠な法義においては、自らの禅定力が不足しているため観行できず、大多数の者はこの時「人に依る」道を選ぶ。名声ある者に従い、これが多数の認めた者ゆえ間違いないと考える。しかし我々は知らない――その大多数とはいかなる人々か、否、ましてや圧倒的多数とはいかなる人々かを。娑婆世界に満ち溢れているのは、ただの凡夫ではないか。凡夫の智慧や認識がそれほど確かなものだろうか。ましてや禅定の浅い者の智慧認識が信頼に足るものだろうか。聖人や絶対真理は投票で選出されるものだろうか。人に依る者が未だに溢れているのは、仏陀がどれほど「法に依れ」と諭そうとも、智慧も福徳も禅定も足りなければ、到底法に依れず、ただ人に依るしかないからである。名声高い者がもてはやされるのも当然といえよう。
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