このように了知すべきである。初識は初識空なり。自業は自業空なり。身識は身識空なり。滅すれば滅空なり。生ずれば生空なり。輪廻は輪廻空なり。涅槃は涅槃空なり。皆自性空にして、作る者もなく、受ける者もなし。ただ世俗に随って顕れる所のものなり。第一義にあらず。このように説くのである。
釈:かくの如く、最初の識と初識の空を了知し、自ら造作した業行と業行の空を了知し、身識と身識の空を了知すべきである。かくの如く一切の法が生ずればその生は空なり、一切の法が滅すればその滅も空なることを了知すべし。同時に輪廻と輪廻の空を了知し、涅槃と涅槃の空を了知すべきである。業行の造作と流転には作者もなく受者もなく、一切の法はただ世俗の分別に随って顕れるに過ぎない。第一義諦においては、このような説き方はしないのである。
来世の色身に生起する初識も空なり。造作する業行も空なり。身識も空なり。もしこの法を滅すれば、この滅法そのものも空なり。本当の滅法などあるだろうか。この法を滅する原則があるだろうか。ない、空である。来世の識の出生、生じる生法も空なり。固定不変の生の法則と原則などあるだろうか。ない、空である。一切の法はこのように生じるのである。我々が六道で輪廻し、人となり天となり畜生となり餓鬼となる。その輪廻も空なり。輪廻が空でなければ、永遠に輪廻し、解脱を得られず、成仏できず、修行は無益となる。我々が輪廻を断ち、輪廻を出離できるのは、輪廻が空であることを示す。真実の不滅の輪廻法などない。我々自身が真実でないのに、真実の輪廻法があろうか。ない、全て空なり、全て幻の如し。
もし涅槃を得れば、三界の世間法を滅し、五蘊が滅し、十八界が滅し、身が滅し、心が滅し、感受が滅し、想念が滅し、身口意の行為造作が滅し、全てが滅する。ただ阿頼耶識のみが生滅せず、清浄寂滅する。この状態を涅槃という。五蘊十八界が滅したこの状態そのものも空なり、生滅変異するもので永遠不変ではない。涅槃の境界も来る所なく去る所なく、涅槃に入る者もなく、涅槃を出る者もなく、作る者も受ける者もない。
故に涅槃は真実の有にあらず。涅槃は寂静状態の顕現であり、世間の喧騒現象と同様に実体なき幻化である。この状態も空なり。ただ阿頼耶識のみ空ならず、その他は全て空なり。涅槃に相なく、空の境界すらも空なり。阿頼耶識を離れてこの空あることなし。
一切の法に作者なく、受者なし。四果阿羅漢となり涅槃に入っても、四果を証した人もなく、涅槃に入る阿羅漢もなし。寂滅楽を受ける阿羅漢もなし。誰が涅槃の寂滅楽を受けるのか。この人を見出すことができようか。涅槃には人なく、阿羅漢なし。もしあれば、それは涅槃にあらず。阿羅漢の色身が滅し、識心が滅し、五蘊の作用が滅し、十八界の現象が滅する。故に涅槃には阿羅漢なく、寂滅楽を受ける者もない。
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