衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月07日    日曜日     第4 回の開示 合計888回の開示

我見を断じてから如来蔵を参究するのが最も効率的です

如来蔵を参究するには、定力を十分に修めた上で参究することが望ましい。そうすれば五蘊の諸活動に対し疑情を生起させることができる。定力が不足している時、五蘊の虚妄性を観行し尽くせず、我見が断たれないと、如来蔵の体性を明晰に思惟できず、疑情が生じにくい。肝要は五蘊虚妄の理が透徹せず、心に五蘊の一切の活動を否定する覚悟がないと、五蘊の諸活動を当然存在すべきもの、自然に有るものと見做し、五蘊の動力源を疑うことも、五蘊が如何に現起するかを観行することもできず、五蘊と同時に存在する如来蔵を参究し求めることが困難となる。小乗の基盤が堅固であれば、我見を断じた後、特に疑情を起こさずとも、制心一処の定力があれば自然に疑情が生起し、如来蔵を参究するに当たって得手応えよく、容易に契入できる。

我見を断ずるには、行住坐臥及び言談語笑の中に自らの五蘊全体の虚妄性を観察し、色身の虚妄性及び意識心の虚妄性を観じなければならない。知見上、理論的には身体が我でなく、意識も我でなく、我が形相なきことを知っていても、意根が未だ認可せず、意識心は自らの虚妄を知りつつも実際の作用がなく、主導権は依然として意根にあり、身口意行の造作は意根の意向に従う。意根が真理を知らぬため、内心は依然として意識を我とし、意識の微細な機能作用を真実不滅と認める。この状態では参禅に多大な労力を要する。

真に我見を断ずるには、深く禅定に入り、細心に思惟を重ね、意根を反復薫習させ、意根に五蘊の自己が確かに虚妄不実であることを了知させねばならない。因縁が熟する時、意根は意識の機能作用が真実でなく我でないことを認可し、その時内心に大転換が生じる。その後如来蔵を参究すれば、証悟は比較的容易となる。

先ず我見を断じてから参禅すれば、参究は比較的軽安に進む。五蘊が完全に滅した後、疑情が生起し、疑情を携えて参禅すれば証悟は迅速である。定力が不足すれば疑情を生起できず、慧力が不足しても疑情を生起し得ない。常に用功の方向が正しいか、方法が適切か、六波羅蜜の条件に何が不足しているかを点検し、菩薩六波羅蜜を円満させる方策を講じれば、将来真実の大乗菩薩となる。

平素より菩薩六波羅蜜の条件が如何に具足し、如何に不足しているかを点検し、足らざる条件を補填努力し、これらの条件を極力整えるべきである。また自らの心性と願力の状態、心量の拡大度、眼界の広がりを常に点検せねばならない。我々が修すべき内容は実に多く、各項目について着実に一歩一歩実修を積み重ねることで、知らぬ間に層層増進し、大乗真実義の菩薩となる。衆生を悲憫する者は必ず真の菩薩であり、真の菩薩は必ず実義菩薩である。故に菩薩の標幟を総括すれば慈悲喜捨に帰着し、これが菩薩の根本基準である。

——生如法師の開示
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