問:「応に住する所無くして其の心を生ず」という場合、もしこの心が如来蔵であるならば、なぜ仏は「応に」と言われたのでしょうか。真実の如来蔵は本来無住のものではなかったでしょうか。「応に」という意識の心は制御できるものではないのでは。師父、ご指導をお願いいたします。
答:「応」とは、第八識が縁に応じて万法を現行する際に無住であることを指します。第七識もまた同様に、六塵の境界や一切の境界に対し無住の姿勢を持つべきです。これが「応」の真意であります。
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