各首長の意根(末那識)が情報を得たとしても、自ら思考分析し検討する必要はないだろうか。研究や加工を行う必要はないだろうか。戦略・戦術の観点から配置や手配をする必要はないだろうか。参謀である六識の意見や提案に完全に同意したとしても、やはり自らの思考・研究・分析・判断を経て、自らの心の働きを持った上で、初めて同意と決断ができるのではないか。参謀である部下と首長は、それぞれの心の働き、それぞれの知恵と謀略、それぞれの手段、それぞれの経験などを持つべきではないだろうか。意根と六識もまた同様である。
外部の者は、部下である参謀の調査研究の役割しか見えず、首長が決断前に情報を思考加工する過程が見えない。そのため、こうした決断に伴う全ての戦闘指揮は部下である参謀の功績だと言うが、これは情理にかなっていると言えるだろうか。
我々の99%、いやそれ以上の人々は、部下の仕事の成果しか見えず、首長の苦労は全く見えない。首長に接する機会がなく、首長の仕事や決断の過程が見えないため、全ての仕事は部下の参謀が完成させたもので、首長はただ同意し決裁しただけだと思ってしまう。
仏法を学ぶ者たちは往々にして、自らが知らず証得していない法を否定し、見えないものは存在しないと言い、ただ自分を信じ、自らの智慧の不足を信じようとしない。これは普遍的な現象であり、法を謗ることはこうして生じるのである。
六識論者は娑婆世界に数多く存在している。第八識を証得できず、意根を証得できず、この二つの能変識の機能作用を観察できないため、否定してしまうのである。
また一部の人々は、第八識の存在を信じてはいるものの、あるいはわずかに第八識を証得してはいるものの、意根を証得できず、意根の運行を眼前に観察できないため、意根の様々な機能作用を否定し、七識論者となってしまう。これも非常に問題がある。
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