衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月04日    水曜日     第3開示 合計301開示

私たちは今この瞬間に生きることができるでしょうか

現代の仏教界では「今この瞬間に生き、現在を捉えるべきだ」という見解が広まっております。しかしながら、我々は本当に現在に触れることができるのでしょうか。目に見える色、耳に聞こえる音、鼻に感じる香り、舌に味わう味覚、身体で知覚する触覚、そして意識で認識する法(概念)——これらはすべて過去の影であり、現在を直接知覚する現量(直接知覚)ではありません。あたかもテレビを見るように、我々の知覚はコマ送りのフィルムが高速で再生されることで生じる一連の動画のようなものであり、これらの画像は刹那に生滅し、個々のコマ自体は静止画に過ぎません。連続した高速再生によって映像が連続しているように見え、そこに映る人や物が連続的に活動しているように見えるのは表面的な現象に過ぎず、実態は影、さらに言えば影の中の影なのです。

我々の六根(感覚器官)が受け、六識(認識作用)が捉えるものはすべて過去の影であり、現在は存在せず、ましてや実在などありません。五識(五感の認識)が分別するのは現量境(直接知覚対象)であると言われますが、五識が分別するものは決して真の現量境ではなく、これもまた過去に生滅した幻影であり、実在でも現在でもありません。五根(五感の器官)が接触する対象も同様に真の現量境ではなく、色・声・香・味・触という五つの情報が五根に到達する頃には、すでに無数に生滅を繰り返した四大(地水火風)の微粒子であり、微粒子の原初の姿ではなく、最初に発生・出現した色声香味触そのものではありません。これらの微粒子すらも、最も真実なものではないのです。

例えば、音は発生源から伝播経路を通って次第にエネルギーが減衰し、耳根に到達する頃には振幅もエネルギーも弱まっております。伝播距離が長ければ長いほど、耳根に届くエネルギーは微弱になります。さらに耳神経を経て後頭部の勝義根(感覚中枢)に至る過程で四大の微粒子はさらに変化し、形成される音は本来の音ではなく、音の「現在」でもなくなります。他の感覚器官についても同様です。

したがって、我々が捉えようとする「現在」はすべて過去のものであり、今この瞬間にとっては既に発生が完了した事象であります。まさに「現在」と言い終わるその瞬間に、それは既に過去となるのです。あらゆる瞬間は、水の流れのように一瞬たりとも留まることがなく、過ぎ去れば二度と戻りません。我々が各瞬間に行う行為は、未来の方向性にのみ影響を与え、現在や過去に影響を及ぼすことはできません。いわゆる「真実」や「現在」は、第八識(阿頼耶識)が接触するものですが、第八識はそれらを分別せず、言葉で表現することもできません。それゆえ我々はその実態を知ることができないのです。このような状況において、我々は現在の色声香味触法をどのように正しく扱うべきでしょうか。それは、これら一切の法(現象)を実体視することを止め、強い執着心を起こさないことです。もちろん、完全かつ徹底的に執着を離れることができればなお良く、そうすれば心は解脱するでしょう。

——生如法師の開示
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六識は意根の配下と参謀

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