現在、仏教界では「今この瞬間を生き、今を捉えるべきだ」という考えが流行しています。しかし、私たちは本当に「今」に触れることができるのでしょうか? 私たちが見る色、聞く音、嗅ぐ香り、味わう味の塵、感じる触の塵、認識する法の塵――そのどれ一つとして真の現量の「今」ではなく、全ては過ぎ去った影に過ぎません。まるでテレビを見るように、私たちが目にするのはコマ送りのフィルムが高速で再生されて生み出す一連の動的な画像です。これらの画像は刹那に生滅し、一枚の画像そのものは静止しています。しかし連続して速く再生されるため、映像は連続しているように見え、そこに映る人や物事は連続して動いているように見えます。表面的には全てが真実のように見えますが、実は全てが影であり、しかも影の影なのです。
私たちの六根が対するもの、六識が見るものは、全て過ぎ去った影であり、「今」は存在せず、ましてや真実などありません。五識が分別するのは現量境であると言われますが、五識が分別するものは決して真の現量境ではなく、これもまた過ぎ去り生滅した影であり、幻化されたものであり、真実でもなければ「今」でもありません。五根が接触するものも同様で、決して真の現量境ではありません。色・声・香・味・触という五つの情報が五根に届く時には、すでに無数に生滅を繰り返した四大の微粒子となっており、微粒子の原初の姿ではなく、最初に発生・出現した色声香味触そのものではありません。これらの微粒子でさえ、最も真実のものではないのです。
例えば、音は発信源から出て、伝播経路を通る間にエネルギーが次第に減衰します。耳根に伝播する時には、その振幅とエネルギーはすでに弱まっています。その間に経る距離が遠ければ遠いほど、耳根に届く時のエネルギーは微弱になります。さらに耳神経の伝導を経て、後頭部の勝義根に至る時には、四大の微粒子はまたもや変化している可能性があり、形成される音はもはや元の音ではなく、音の「今」でもありません。他の根(感覚器官)も同様です。
したがって、私たちが捉えようとする「今」は、全て過去の「今」です。現在にとっては、すでに全て発生し終わったことです。そしてまさに「今」と言っているその瞬間に、それはすでに過ぎ去っています。それぞれの「今」は、念々として留まることなく、流れる水のように、一度去れば二度と戻ってきません。私たちがそれぞれの「今」に行うことは、未来の方向性に影響を与えるだけであって、「今」や過去に影響を与えることはできません。いわゆる真実、いわゆる「今」は、全て第八識が接触するものです。しかし第八識は分別せず、それを言葉で表現することはできません。ですから私たちはそれを知ることができないのです。そうであるならば、私たちは今この瞬間の色・声・香・味・触・法をどのように正しく扱うべきでしょうか? それならば、もはやこれら一切の法を真実と見なすことを止め、強い執着性を生じさせてはなりません。もちろん、完全に徹底して執着しないことができれば、それに越したことはありません。そうすれば心は解脱するのです。
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