衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年01月11日    金曜日     第1開示 合計1173開示

択法眼とは何でしょうか?

七覚支のうち、第二は択法覚支であり、これを修めると択法眼が得られる。これにより、接触する法が正しいかどうか、接触する法師に道があるかどうかを知ることができ、正しい選択を下すことができ、道を誤ることがない。これは証果開悟の前に備えるべき覚悟性であり、そうでなければ証果も開悟も得道もできない。

択法覚支を修めず、択法眼を得ていない段階では、修行はまだ十分でなく、福徳・定力・智慧が欠けている。師に智慧があるかどうか、その智慧の程度も分からず、法の正邪善悪も判別できず、頭が混濁して明らかでない。正法に出会っても学ぶことを知らず、邪法に出会っても避けることを知らないため、正知見を得ることができない。択法眼を持たない一部の者は、疑蓋が除かれず、法を疑い師をも疑い、法と師の双方について確信が持てない。このような修学は進歩も成功もない。疑い深いのは善法ではなく、福徳が欠けているからこそそうなるのである。弁別する能力が備わって初めて疑いが除かれ、道業が進展する。

唯識を真に通達した後でこそ、弥勒菩薩の境地に至ることができる。これは一朝一夕の業ではない。最も基本的には第八識を証得し、その後さらに禅定の修証を伴い、煩悩を断じ、煩悩習気を断じ、徐々に一切の法を証得できるようになり、無明が破れ尽くすのである。『瑜伽師地論』のすべての法は実証が求められており、基礎的な法を証得していなければ、その上位の法は証得できず、さらに上位の法はなおさら証得できない。

したがって唯識を学ぶには、必ず大いなる心を発して明心見性を目指し、着実に菩薩の道を歩まねばならない。内門と外門の菩薩六度を、ともに修行して円満にすべきである。真に衆生を利益できる大心の菩薩となることを誓願し、仏力の加護のもとで初めて唯識学の修学を終え、妙覚菩薩の果位に到達し、成仏を待つばかりとなる。仏法を学ぶのは理論だけではない。その中には仏の清浄なる大願、仏の衆生に対する慈悲喜捨の心量、仏の戒定慧、仏の甚深なる禅定を学び、仏の備える一切の功徳を学び取り、すべてを実践してこそ、私たち自身が成仏できるのである。

——生如法師の開示
前へ前へ

参禅の方向

次へ 次へ

真の修行とは個人の独立した修行である

ページトップへ戻る