七覚支のうち、第二は択法覚支である。これを修めると択法眼が生じ、接触する法が正しいか否か、師に道があるか否かを知り、正しい選択を下すことができ、誤った道に迷うことがなくなる。これは証果して悟りを開く前に備えるべき覚悟である。これがなければ証果も悟りも得道もできない。
択法覚支を修めず択法眼を得ていない段階では、修行はまだ力不足であり、福徳・定力・智慧が欠如している。師に智慧があるかどうか、その深浅も分からず、法の正邪を判別できず、頭脳は混濁したままである。正法に遇っても学ぶことを知らず、邪法に遇っても避けることを知らないため、正知見を得ることができない。択法眼を持たぬ者は疑蓋が除けず、法をも師をも疑い、修学の進歩と成就を得られない。疑い深いのは善法ではなく、福徳の欠如によるものである。弁別する能力が生じた時に初めて疑いが除け、道業が増進する。
真に唯識を通達した後、初めて弥勒菩薩の境地に至ることができる。これは一朝一夕の業ではない。最も基本的には第八識を証得し、さらに禅定の修証を重ね、煩悩を断じ、煩悩習気を除いて漸く一切法を証得し、無明を破尽するのである。『瑜伽師地論』の全ての法は実証を要する。基礎的な法を証得せずして上位の法を証得することはできず、更に上位の法は尚更証得不能である。
故に唯識を学ぶには、必ず大いなる心を発して明心見性を求め、菩薩道を着実に歩まねばならない。内門・外門の菩薩六波羅蜜を共に円満に修行し、真に衆生を利益する大心菩薩となることを誓願し、仏力の加護の下で唯識学を修め尽くし、妙覚菩薩の果位に至り、成仏を待つべきである。仏法を学ぶとは単に理論を学ぶのみならず、仏の清浄なる大願を学び、仏の衆生に対する慈悲喜捨の心量を学び、仏の戒定慧を学び、仏の甚深なる禅定を学び、仏の具える一切功徳を学び実践してこそ、我々は成仏できるのである。
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