問:私は毎日朝晩に懺悔し発願していて、身口意は以前よりずっと清浄 (viśuddha/pariśuddha) になりましたが、ごくたまに無意識のうちに貪の業と瞋の業を犯してしまうことがあります。このような懺悔は意根まで深く届いていない、如法ではない、まだ業が消えていないということなのでしょうか?
答:懺悔したからといって、業障が一気にすべて消し浄められるとは限りません。必ず残りの業がまだ消えていなかったり、煩悩障があったりします。なぜなら、誰もが懺悔を徹底して行き届かせられるとは限らないからです。また、懺悔で消せるのは性障 (kleśāvaraṇa) の煩悩業の一部だけで、すべての性障を消し去ることはまず不可能ですし、さらに罪障には消しきれないものがあり、それゆえに罪報は避けられないのです。
仏在世のとき、ある居士が四果阿羅漢を誹謗しました。その阿羅漢はすぐに堂に上がって鐘を打ち大衆を集め、その居士にこう告げました。「私は阿羅漢の果を証した。あなたは急いで大衆の前で私に誹謗の業を懺悔しなさい。さもなければ地獄の果報を受けることになる」。その居士はすぐに大衆の前で阿羅漢に懺悔し、阿羅漢は言いました。「私はあなたを許した。罪業が消えることを願う」。しかし、この居士は命終後、やはり地獄に堕ちて果報を受けました。この物語は、懺悔が役に立たない、業を消せないということを言っているのではなく、懺悔で消せるのは心性上の罪業だけであり、事相上の罪業はすでに造作されて事実となっているので、それは消し去ることができず、果報を受けてはじめて消えるのだということを言っているのです。あの居士は懺悔の後、性障はなくなりましたが、罪障はまだ存在していたので、地獄に行って果報を受けたのです。もし懺悔していなければ、性業に罪業が加わって地獄で受ける苦しみはさらに大きく、とても耐えがたいものになったでしょう。だからこそ、私たちはみなできる限り身口意行に注意し、とりわけ三宝に対してはいっそう慎重に、いかなる誹謗の業も造ってはなりません。
もし煩悩業障がすべて消し浄められたなら、それは証果し成仏したということです。実際には、それほど簡単にすべて懺悔して清浄 (viśuddha/pariśuddha) にできるものではありません。煩悩業障は少しずつ軽減されていくものであり、軽減されたとはいえ、時折まだ表に出てくることがありますが、それはすべて正常な現象です。懺悔が意根まで深く届いた後も、どの程度まで深まったか、どの程度まで変わったかを見なければなりません。間違いなくまだ程度が足りないのです。もし程度が十分であれば、煩悩はすべて断じ尽くされているはずです。程度が足りなければ、もちろん煩悩業障はまだ残りますが、これも正常な現象です。以前より進歩している、毎日進歩している、それだけで良い現象なのです。
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