外色の数多き如来蔵が共に顕現し、内色は自らの如来蔵が顕現し、眼根は如来蔵が顕現し、眼識は如来蔵が顕現する。眼識が色を見る作用は如来蔵の第七識・第六識・眼識の共同作用によるもので、内色を眼識と意識の中に顕現させる。この四つの識は各々独自の作用を持ち、また和合の作用もある。根・塵・識の三者は全て如来蔵が顕現し執持し指導するもので、これら三者を離れては衆生も五蘊も存在しない。では五蘊の衆生とは何か。どこに私があり、五蘊があるのか。どれが私なのか。
色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思う。一切の見聞覚知、全ての覚受の機能、全ての思想と情怀は何なのか。五蘊の依存する法を探り出し、これらの法が何であるかを観行し、これらの法がまた何に依存しているのかを観るべきである。依存性あるものは真実でなく、自在でなく、自主的でなく、苦空無常で、生滅し、幻化し、虚妄で、無我である。
このような思惟に従って定に入り観行し、思路を整理し、意根に感知させ、覚悟させ、触証させるならば、最後に内面から声が響くだろう:これら一切の法は真実性なく、全ては戯れである。どこに私があり、どれが私か、全てそうではない。そして慟哭し、身心が脱落し、何の掛礙もなくなる。
この過程において、意根が次第にこの事実を認めようとする時、心理は非常に苦痛で悲しみに満ちる。永劫にわたって執着してきた自我が眼前に消え去ろうとする時、心は当然空虚で恐怖に満ち、断崖の縁に立つが如く、落下を非常に恐れ、躊躇し、心配し、恐れる。何もないと知りながら、何も掴めなくなることを恐れ、その心境は極めて煩悩に乱れ、かき乱される。時を経て次第に受け入れられ、平静を取り戻し、正常に戻る。これは現世で初めて我見を断とうとする者が経験する過程である。前世で既に多生多世にわたり我見を断じた者は、軽安で喜びに満ちた心境となる。
各人が触れ得るものは全て個人の私有物である。私有は第二次の幻化を表し、幻のまた幻である。外部の公有も内部の私有も全て幻化虚妄で真実性なく、鏡の映し出す像である。真に鏡像観を証得するのは初地満心の時であり、初地で修すべき法は既に修し終えている。
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