参禅と観行の段階においては、意識を用いるだけでなく、最も重要なのは意根を用いることです。工夫が意根に至らない場合、全ては情思による解釈に過ぎず、たとえ理解したとしてもそれは意識の理解、つまり解悟にすぎません。定力のない状況下で悟ったものは、百パーセント解悟です。故に定力が不足している時は、決して参究すべきではなく、ましてや悟りに入ろうと企ててはなりません。このような状態での悟りは解悟であり、むしろ悟らない方がましです。一生涯生死の間で停滞し、上にも下にも進めず、道業は永久に進歩できなくなります。さらに慢心を増長し悪業を造作し、将来後悔しても時既に遅しとなります。皆様は肝に銘じてください。寧ろ悟らぬままでいる方が、解悟よりましです。生煮えのご飯は非常に食べにくいものであり、再び炊き直しても、なかなか熟すことは難しいのです。
今後仏法に接する際、我々は解悟の方法か証悟の方法かを弁別することを学ばねばなりません。特に修定の方法を用いないものは解悟の方法ですから、必ず避けるべきです。
定力が不足している者が人に導かれまた導かれ、啓発されまた啓発されるのは、因縁が具足していない証であり、一般的に言って全て解悟に属します。
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