参禅の際には、意識は無念となり得ますが、意根は決して無念であってはなりません。全ての念が消え去るのは単に定を修している状態であり、このような無念の定からは智慧が生じず、従って悟りを開くことも、本性を見ることもできません。
定力が極めて優れている時、意識は一見無念のように見えますが、実際には一つの念が心の奥底、即ち意根の領域に懸かっています。意根が参究を続ける中で、意識がこれに協力し、資料が十分に整い、データが完備すれば、意根を主として参究が進みます。もしデータが不足すれば、意根は意識に資料とデータを求め、その後深く参究を続けます。これが真の参究修行の秘訣であり、もし全てが明らかになれば、もはや秘密とは言えません。
意根が意識に資料やデータを求める際には、意識は明らかに思惟分析を行い、その分析思惟の結果を再び意根に引き渡します。そして意根はこのデータに基づいて再び参究を深めるのです。
我々は皆経験があるように、表面的には何の念や思惟もないように見えても、実は心の深層は静寂に至らず、幾らかの思想活動が深く潜んでいます。恰も大海の水のように、表面は流れず静かに見えながら、実際にはその流れは非常に速い。意根とはまさにこのようなもので、深遠で探り難く、計り知れないものなのです。
経験豊かで高度に責任感ある禅師は、弟子の因縁が具足しているかを観察します。もし具わっていなければ、禅定を欠く者に対しては指導を始めず、弟子が解悟に留まり一生活力に満ちることがないように配慮します。異なる禅師の下で悟る場合、その智慧には大きな差異が生じ、証量も大きく異なります。従ってどのような禅師と出会うかは、まさに自らの福徳の問題を示していると言えるのです。
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