前五識には定心所があり、もし五識に定がなければ、眼識は多種の境に執着し、耳識は多種の境に執着し、鼻識は多種の境に執着し、舌識は多種の境に執着し、身識は多種の境に執着し、意識も必ずそれに従って多種の境に執着することになります。このようにして心は大いに乱れることになるのではないでしょうか。五識に定がなければ、意識も定まることができず、意識は必然的に五識に従って所々で分別し、このようにして心は容易に乱れ麻の如くなるのです。
現に見るに、五識はそれぞれ一処二処に定まり散乱せず、微細なものを了別することができます。これは五識に定が存在し、定と相応することを示しています。もし六識に定がなければ、意根が定まらないことを示します。なぜなら五識・六識が境に執着するのは、意根が主導して攀縁する結果によるものであり、意根が境を見ようとしなければ、六識は境を見ることができないからです。したがって、もし意根に定がなく、定と相応しないならば、修行は永遠に禅定を得ることができず、四禅八定も修めることができません。世人は欲界の人間界にのみ生きることになり、天上界には衆生が存在しなくなります。
五識には了別の慧があり、五塵に対して判別と確認を生じさせ、五塵に対して明確な了別と判別が可能です。したがって五識には慧心所があり、五識の慧が強くなる時も、五識の定心所によって引き出されます。定より慧が生ずるとはこの理です。同様に、意根の慧も大部分は定によって引き出され、特に煩悩を断じ、識を転じて智となった後の智慧は、更に意根の定心所によって引き出されます。五塵が究竟何であるかを確認できるということは、五識に勝解心所があり、五塵法の相貌を明らかにし勝解できることを示しています。
五識が五塵の境界に対して境に趣く性質と避ける性質があることは、五識に欲心所があることを示します。例えば、眼識が柔和な色彩に遇えば主動的に趣き、強烈なまぶしい太陽光に遇えば自然に避けるのは、眼識の欲心所です。耳識が耳障りな音に遇えば極力避け、柔和な軽音楽に遇えば心がそれに憧れます。鼻識が刺激的な匂いに遇えば避ける心を生じ、馨しい香気に遇えば境に趣き貪愛を生じます。舌識が美味に遇えば主動的に探し求め境に趣き、刺激的な味に遇えば極力避けます。身識が軽触と妙触に遇えば境に趣き貪愛を生じ、違逆の強烈な苦痛の触に遇えば緊急に避けます。以上が五識に微弱な欲心所があることを示しており、意識の欲心所よりはるかに微弱で、表現が明らかでなく観察しにくいものです。
五識はかつて習った境に対しても一定の念性があり、この念性によって欲心所が存在し、貪愛を生じて境を離れず、境に粘着して放さないことが可能となります。
五識は五別境心所法を具足していますが、ただ微弱であり、一般的には五倶意識の五別境として現れます。しかし細分すれば、やはり識別可能です。全体的に見れば、五識の現行と運作は依然として意根の制御と決定によるものであり、このため五識の欲心所は一層微弱で曖昧となり、意根の操作の中に覆い隠されて発見しにくいのです。
1
+1