意根には勝解が存在します。もし意根に勝解がなければ、重大な事態が突発した際に、意根が正確に了別することができず、効果的な応急措置を講じることができません。例えば車が自分に向かって突進してくる場合、意根が勝解した後に直ちに色身を動員して危険を回避するため、車が衝突する瞬間に緊急で危険を避けることが可能となります。もし意根が勝解しなければ、六識が了別した全ての六塵の境界が意根に伝達されても、意根は正確に理解することができず、適切な選択を下すことができません。理に適い法に叶った形で六識に次の行動を指揮することが不可能となります。もし意根が勝解しなければ、意識が学習した内容はどれほど熏習を重ねても意根には無意味であり、意根は理解できず種子を保存することもできません。意識の学びはその功を費やすことになります。しかし意識が絶えず意根を熏習すると、意根もまた認可と変化を起こし、正しい選択を下すようになります。これが意根の勝解です。
もし意根が勝解しなければ、意識が学んだ四聖諦の無我の法は意根を熏染させることができず、意根は永遠に我見と我執を断つことができません。もし意根に勝解がなければ、意識が学んだ般若の理は意根を熏染させることができず、意根は永遠に般若を証得できず、般若智慧を獲得できず、識を転じて智とすることも、ましてや仏地に至って八識を究竟的に転識成智することも不可能です。では意根に果たして勝解はあるのでしょうか。意根には当然勝解が存在します。
3
+1