痛みを覚知する際、四つの識心が作用します。身識・意識・意根・第八識の四識が和合して作用し、初めて足の痛みを覚知できるのであり、一つでも欠ければ成り立ちません。具体的に痛みを感じるのは身識と意識であり、意根と第八識は痛みを感じません。どうすればこの四識を区別できるでしょうか。もし区別できれば、大いなる智慧を得たことになります。
痛みを感じる感覚は受蘊に属します。受蘊が尽きた時に初めて痛みを感じなくなります。受蘊を尽くすまで修行するには四禅以上の境地が必要で、明心見性した後、四地菩薩以上の境界に至らねばなりません。玄奘三蔵のインドにおける唯識の師匠でさえ、頭痛に耐えかねて去ろうとした際、観世音菩薩が現れて制止し、玄奘に唯識を教え終えてから去るよう告げ、過去世の因果を説きました。現代に玄奘のインドの師匠と同じ程度の智慧を修めた者がいるでしょうか。仮に修めたとしても、受蘊が尽きる境地には至っておらず、おそらく色蘊が尽きる境地にも達していないでしょう。それでどうして痛覚がないなどと言えましょうか。
痛覚のない者には三種あります。一つは生来の果報によるもので、福が尽きれば消滅します。一つは他類の衆生から加持を受けたもので、さらに生滅して頼りになりません。もう一つは四禅八定を修めて得たもので、これも生滅の法です。しかし四地以上の菩薩はこれを保持できますが、明心見性し証果を得た聖人でなければ、到底保持できません。
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