六識の体性機能とは、了別と分別であり、いわゆる了別分別とは知ることである。知がある限り、六識の存在がある。この知は時に非常に顕著に感じられ、自らが感知できることもあるが、時にその感覚が明らかでなく、自らが知っていることを認識しないこともある。自らが心に知を有することを知る時、これが意識の証自証分である。この知は時に内面の声と言葉文字であり、時に心声も言葉も文字もない状態である。
この知は時に念いを伴い、時に念いを伴わない。念いがあるか否かに拘わらず、これらは全て意識の知である。念いのない知は、多少の定力が生じた状況下、あるいはその他の特殊な状況下においてのみ現れる。例えば驚愕を受けたり、極度の歓喜、悲哀、または入定時、この時の心は決して無知ではない。ただ知が存在し、自らが念いを失ったことを知り、心が静まったことを知るこの知こそ、意識心が法塵を知る知である。
もし五塵境界を明瞭に知覚し得るならば、ここに五識の知が存在する。もちろん第八識と第七識の知からも離れていない。意識心が自らを反観できる時、自らに知が存在すること、あるいは何かを知ったことを観察し、自らの心的状態を知る、これが意識の証自証分である。我々の智慧が不足し、定力も不十分な時、この反観能力は非常に弱く、自らの心の状態を完全に真に了知することができず、貪瞋痴の煩悩を検出することもできない。従って煩悩性障は主動的に降伏されず、修行は進歩し難い。
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