衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月09日    金曜日     第4 回の開示 合計179回の開示

五識五別境心所法

問:前五識には現量による了別機能のみがあり、比量はありません。従って五別境心所は存在すべきではなく、前五識の現行及び作用は主に意根によって駆動されるのではないでしょうか?

答:前五識には定心所が存在します。もし五識に定がなければ、眼識は多様な境に執着し、耳識は多様な境に執着し、鼻識は多様な境に執着し、舌識は多様な境に執着し、身識は多様な境に執着するならば、意識も必ず多様な境に執着することになり、心は大いに乱れることでしょう。五識に定がなければ意識も定まらず、意識は必然的に五識に随って所々で了別を続け、心は千々に乱れることになります。

現に見るに、五識はそれぞれ一処二処に定まり散乱せず、微細な了別を行うことができます。これは五識が定を有し、定と相応することを示しています。もし六識に定がなければ、意根が定まらないことを意味します。五識六識が境に執着するのは意根が主導して縁を攀じる結果であり、意根が境を見ることを欲しなければ、六識は境を見ることができません。故に、もし意根に定がなく定と相応しないならば、修行によって永遠に禅定を得ることはなく、四禅八定も修められず、世人は欲界人間にのみ生きることになり、天上に衆生は存在し得なくなります。

五識には了別の慧があり、五塵に対して判別と確認を生じさせ、明確な了別と判別を行うことができます。従って五識には慧心所が存在し、五識の慧が強まる時、それは五識の定心所によって引き出されるものであり、定より慧が生ずるという道理です。同様に、意根の慧も大部分は定によって引き出され、特に煩悩を断じ識を転じて智となった後の智慧は、更に意根の定心所によって引き出されます。五塵が究竟何であるかを確認できるということは、五識に勝解心所が存在し、五塵法の相貌を明らかにし勝解できることを示しています。

五識が五塵の境界に対して境に趣く性質と避ける性質を持つことは、五識に欲心所が存在することを示します。例えば、眼識が柔和な色彩に遇えば能動的に趣き、強烈なまぶしい太陽光に遇えば自然に躲避するのは眼識の欲心所です。耳識が耳障りな音声に遇えば極力避け、柔和な軽音楽に遇えば心これに憧れます。鼻識が刺激的な臭気に遇えば躲避の心を生じ、馨しい香気に遇えば境に趣き貪愛を生じます。舌識が美味に遇えば能動的に探し求め趣き、刺激的な味に遇えば極力避けます。身識が軽触と妙触に遇えば境に趣き貪愛を生じ、違逆する強烈な苦痛の触に遇えば急ぎ避けます。これらは五識に微弱な欲心所が存在することを示し、意識の欲心所より遥かに微弱で表れが顕著でなく、観察し難いものです。

五識はかつて慣れた境に対しても一定の念性を有し、この念性によって欲心所を生じ、貪愛を生じて境を離れず、境界に粘着して放しません。

五識は五別境心所法を具足していますが、微弱であり、通常は五俱意識の五別境として表れます。しかし細分すれば、依然として識別可能です。総じて言えば、五識の現行と作用は依然として意根の制御と決定にあり、これによって五識の欲心所は一層微弱かつ曖昧となり、意根の操作の中に覆い隠され、発見し難いものとなります。

——生如法師の開示
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