第七識は万法を了別し仏法を修学する際に作意心所法を生起させますが、その中でも意根の作意が主体となります。意根の作意が六識の作意を引き起こすのです。意根の作意には前提条件があり、様々な因縁が存在します。因縁条件が異なれば、その作意も異なります。興味を抱いた対象には貪着の作意を起こし、興味がなく厭わしい対象には即座に離れる作意を起こします。重要でないと判断したものには、作意した後再び触れることはありません。
欲とは願望・意欲・憧れ・希求を指します。例えば極楽浄土を憧れる場合、ただ意識が憧れるだけでは不十分で、意根が憧れなければ極楽浄土へ往生することはできません。意根の憧れと欲求があって初めて極楽浄土に生まれることができ、この意根の憧れを深く信じ切に願うことと言います。
意根に何の考えや願いがなければ、一切の事業は成就しません。意根が三界の世間法を求めなくなれば、命終すれば無余涅槃に入ります。阿羅漢はこのような状態で、意根が一切の世間法を求めず、世間の全ての法への欲望と希求を断ち切ります。意根が証果を得ようと願い、明心見性を目指せば、初めて仏法修行に精進する道を選び、三十七道品を満たすことができます。意根にこのような考えや希求がなければ、その人は到底精進して修行することはできず、意識の考えだけでは決定的な作用を及ぼしません。意根に染まって初めて効果を発揮するのです。
もし意根が仏法を学ぶ意欲を持たなければ、意識は仏法を思惟することができず、世俗の法を思惟し世俗の事柄に携わることになります。思うとは希求すること、即ち欲望です。意根に欲がなければ決断を下さず、方向性を持たず、行動を起こすこともなく、相応する法も生じません。意識が修行を思い精進しようとしても、意根に染まらなければそれは単なる思いに過ぎず、真の精進は不可能で、実際の行動も起こりません。実際の行動は意根が決定し造作するものなのです。
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