衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年07月21日    水曜日     第2 回の開示 合計3485回の開示

異なる行者における証法の段階差は何故あるのか

五蘊を観行する際、深い禅定があれば、思惟はより深く細やかになり、法義の中へとひたすら深く入り込み、それによって法義の謎を一層一層解き明かすことができます。観行思惟を行う際には、ゆっくりと、細心に、深く、自らの身口意と即座に対照させながら、できる限り広範にわたって探究し、証拠を集め、五蘊が私ではないことを証明しなければなりません。この面がなぜ私ではないのか、あの面がなぜ私ではないのかを探究し、できる限り一つ一つ証拠を探し、「なぜか」と問いかけ、その疑問を解決しなければなりません。深く細やかに思惟を重ねる必要があります。もし形式的な理解や表面的な納得に留まり、真に心に落とし込まれていないならば、全ての理論的知識は空虚なものとなり、根本的な問題も実際的な問題も解決できません。

観行思惟の方法はどのようなものでしょうか。例えば「色身は非我である」を観行する場合、「非我」は結論ではありますが、これは仏陀の結論であって私たち自身の結論ではないため、この結論は私たちとは無関係です。観行を経て自らが確実にこの結論に至った時、初めてこの結論は自らのものとなり、自身の智慧の結晶となり、解脱の功徳を享受できるのです。仏陀の結論は単なる手掛かりに過ぎず、自らの智慧を開くための参考として機能します。この結論に沿って逆方向に観行思惟を進めることができます。「なぜ色身は非我なのか」――それは色身が空であるからです。「なぜ色身は空なのか」――それは色身が苦であるからです。「なぜ色身は苦なのか」――これが最初の観行の出発点となり、ゆっくりと思惟を重ね、様々な根拠を探求する必要があります。

最終的に「色身は確かに私ではない」という結論に至れば、これによって身見と我見を断じることになります。各人が観行を経て証得する果位は必ずしも同一ではなく、身見を断除する程度に差異があるため、どの程度を証得し、どの程度まで修行し実践したかによって異なります。たとえ初果を証得する場合でも程度に差があり、身心の受用と変化の度合いも異なります。例えば同じ一年生でも、クラス内での学習水準は様々です。証果は卒業のようなもので、卒業時の水準も人それぞれであり、早く卒業する者もいれば遅い者もいます。各修行者が証得する法の次元が異なるのは、参究する範囲や角度、深さが異なり、思惟力が違い、証拠の深さと力度も異なるためです。それ故に得られる智慧も異なり、智慧が異なれば行動の変化の程度も異なります。思惟が深く細やかであればあるほど、定力はより良くなり、定力が良くなれば思惟はより深く細やかになり、証得する程度はより深く究極的となり、心の行いの変化はより徹底したものとなるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

我見を断つ観行の方法と目標

次の記事 次の記事

愚かとも阿羅漢果を証し、賢くも三悪道を免れず

ページのトップへ戻る