周利槃陀迦は意識が非常に鈍く、一句の仏法理論も記憶できず、思考力も弱く、推理・整理・帰納・概括・分析・比較もできませんでした。ただ鼻息を観じるだけで、なぜ四果阿罗汉を証得できたのでしょうか?古今東西の文人墨客は三蔵を究め、多くの著述を残し、詩集や偈頌は珠玉の言葉に満ちていますが、なぜ証果の影さえ見えないのでしょうか。仏法は説くことにも解釈することにもなく、文辞の優美さにもなく、実践してこそ真髄です。リンゴを口にし、胃に収め、腹を満たすことが最大の恵みであり、リンゴを研究し論文を書いて受賞を争うより余程実益があります。
周利槃陀迦のように愚鈍で理論を理解できない者が鼻息を観じる時、意識の様々な功德はほぼ役に立たず、観行においても小細工ができません。鼻息などの諸行の生滅を分析できず、苦空無常無我を推論できず、諸行無我や五蘊無我を推測できなかったことが、かえって意識の情思意解を省き、意根の機能を十分に発揮させる結果となりました。彼は我見を断じただけでなく、直接四果阿罗汉を証得したのです。ここに仏法の最終的な修証が意識での努力ではなく、理論が分からなくとも方法と方向が正しく精進すれば悟りを得られることが明らかです。
三蔵を究め学識豊富な理論家たちは意識でのみ努力し、雄弁華麗に言葉を紡ぎ人々の賞賛を浴び名声を博しても、結局何も得られません。得たように見える所こそ失う所なのです。例えば蘇東坡は仏法をどれほど理解し感悟しても修証には全く至らず、文人の習気は深刻な悟道の障礙となります。琴棋書画など世間の技芸は全て悟道を阻む因縁ですが、世人はこれを栄誉とし、実に倒錯しています。理論を愛し「得る」ことを好む学人たちは、今こそ自らを省みるべきではないでしょうか。
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