問:意根が遍計所執性であるならば、天界にも人間界にも遍く縁を求め、主導的な識であるが故に、必ず六識を伴い、六識もまた遍く縁を求める。当然、これも遍計所執性であるべきです。六識は如来蔵が縁によって生じたものであるから依他起性であり、因と縁によるものは即ち依他起です。意根もまた如来蔵が業種によって生じたものであるから、当然依他起性であるべきです。意根を真実の生起という観点から見れば依他起性であり、虚妄の見相という観点から見れば遍計所執性です。故に、外塵と内塵、諸識と業種は全て如来蔵より生じ、全て依他起性です。如来蔵によらずに生じたものこそが遍計所執性です。従って意根は依他起性と言うべきでは?
答:意根は最初、無始劫以前より存在していました。その時如来蔵の心体にはまだ五陰による業種が形成されていませんでしたが、意根は依然として存在していました。その存在理由は意根に無明があるためで、これを無始無明と呼びます。一念の無明もまた無始であり、これも無始無明と呼ばれます。意根が生起し存在するための縁は極めて少なく、如来蔵と無明、そして諸仏菩薩の願力があれば足ります。故に意根の依他起性は顕著ではありません。
意根の最も主要な特性はその執着性にあり、凡夫の段階では一法も執着しないものはありません。これを遍計執性と呼びます。この執着性の故に、分段生死と変易生死は終わる時がありません。六識の生起と存在は主に意根の遍計執性に由来し、六識が生起するための縁は意根よりも多く、因縁が具足して初めて六識は生起します。故に六識は依他起性であると言います。六識にも執着性はありますが、その執着性は依然として意根の影響を受け、熏染され、調整されています。その執着性は意根と比べると顕著ではありません。主要な特性から言えば六識は依他起性であり、六識を遍計執性とは言えません。六識は一切法に遍く作用するものではなく、遍ざぬ点が多いため、六識を遍計執性とは言えないのです。
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