もし意根に瞋りがなければ素晴らしいことです。意識が一旦滅すれば、それは無瞋の第三果の聖者となり、死後に転生する時も第三果の聖者として生まれ変わります。我見を断つ必要もなく、初禅定を修める必要もなく、凡夫が意識を滅ぼせば直接に第三果の聖者となるのです。意根にどのような煩悩もなければ、ただ死ぬだけで聖者となり、後世でさらに修行を重ねる必要もなく、少し観行するだけで証果を得、速やかに初禅定を修め、煩悩を断ち、再び第三果の聖者となるでしょう。もし意根に無明がなければ、それこそ仏そのものとなり、私やあなたがここで修行することなど全く無駄なことです。そもそも修行する必要などなく、意根に無明がなければ無明を破る必要も、無明を断尽する必要もなく、本来仏であるのに、何を修行する必要がありましょうか。
もし意根に瞋りや煩悩がなければ、私たちがただ眠りにつき意識が断滅するだけで、眠る者は皆聖者となるでしょう。生まれたばかりの嬰児の意識と勝義根は全新しく、意根に瞋りや煩悩がなければ、生まれてくる嬰児は皆聖者となるのです。それならば私たちがこんなに苦労して修行する必要があるでしょうか。意根に瞋りがなければ、嬰児は物を得られなくても激怒して泣き叫ぶことも、怒って人を打つことも、母を悪く言うこともなく、見知らぬ人が抱き上げようとしても拒むことなく、嬰児には不機嫌な時も、口を尖らせることも、癇癪を起こすこともないのです。
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