衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月07日    日曜日     第7 回の開示 合計891回の開示

倶生我執は意根のものなのか、それとも意識のものなのでしょうか

意識に倶生我執はあるのでしょうか。倶生とは、生まれつき備わっていることを指します。意識が最初に現れた時、東西南北も弁えず、何も知らず、当然「我」という概念も、父母や兄弟姉妹の区別もありません。したがって我執は存在しません。嬰児の意識に現れるものはすべて、意根が教え導き熏習したものであり、ゆえに意根こそが倶生我執を有し、意根は再び生じる必要もありません。環境や父母は暫時嬰児を熏習できず、意識は徐々に教えられて初めて一切の法、全ての法を次第に理解するようになります。自らの意根に教えられるにせよ、他者に教えられるにせよ、環境に染まるにせよ、意識は一切の法を一つひとつ学ばねばならず、先天的に知っているものはなく、自我の認識も含まれます。

意識は最初、すべて意根に教えられ熏染され、生じた時から意根に調教され、意根の支配を受けなければならず、何の原則も主見も持ちません。母胎内における意識のすべての現れは、さらに完全に意根に随順し、微塵の自我主張もありません。出生後の意識も、完全に意根の意志と習気に従順で、些細な自我主張もありません。後に環境に熏染され、他者に教えられて初めて、ある程度の認知と自我主張を持つようになります。

子供の無邪気さは、完全に自我の内心(意根)の現れにあり、虚偽も偽装も意識の隠蔽もなく、意根の直性と率性によるものです。意識は意根を制御せず、意根を偽装しません。子供から直接意根の特性を発見できます。子供は生来貪欲心を持ち、それは意根の貪りです。生来怒りを覚えるのは意根の瞋恚、生来愚かなのは意根の愚痴です。子供が生まれつき並外れて聡明なのは意根の智慧、生来ある種の特技を持つのは意根の才能です。凡そ生得的で後天的に特別に学ばないものは、すべて意根に属します。

ある人々が特定の分野で慧力に優れ、後天的学習なしに生来そうであるのは、意根の慧であり、前世から持ち来たしたものです。天才児童はこのような存在です。意識が後天的学習を通じて獲得する智慧には時間を要し、極めて迅速ではありません。非常に速く習得できる場合、依然として意根の熏習を受け、前世で接触したことがあり、業種と意根に関係します。仏法を学ぶことも同様で、ある者は仏法を一日千里の勢いで修得し、善根と慧根を有し、前世の基盤があり、意根が前世の熏習を今世に持ち来たすため、仏法を学ぶことが極めて迅速です。

我々が意根と意識をどうしても区別できない時は、意識が存在しない状況、意識が微弱で作用が小さい状況、意識がまさに現れようとする時と滅しようとする時の状況を考察すべきです。これらの状況はすべて意根の特性の現れです。

——生如法師の開示
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