問:隔陰の迷いによって前世で悟りを開いていたとしても、今世で改めて悟りを直す必要があるならば、修行にやや退転があると解釈してもよいのでしょうか。特に無明の状態で多くの業を造作してしまう点が懸念されます。
答:宿命通を得ていない限り、たとえ今世で悟りを開いても、来世ではそれを覚えておりません。来世当初は必ずしも仏法を信じ理解できるとは限りませんが、今世に培った善根と福徳力によって、来世に因縁が熟する時が来れば再び仏門に入る機縁に恵まれます。しかも来世の修行は今世よりも速やかに進み、ある程度修行を積めば同様に明心見性することができ、こうして今世の修行と連続性が生じるのです。その方は他者の指導を必要とせず、自ら今世の修行法に沿って再び悟りを開くでしょう。たとえ善知識の導きがなくとも邪道に迷うことなく、修行の次第は前世の到達点と繋がるばかりか、それを超える証悟の境地に至ることが可能です。
今世で驚異的な速さで修行を成就し、根性の鋭い人々を見かけた際は、その前世における修行の基盤が如何に堅固であったかを疑う必要はありません。その深厚な基礎が今世の深遠なる智慧を成就させたのです。反対に今生で修行の進みが極めて遅い方は、前世において仏法の基礎を確立できず、教えに触れる機縁が浅かったため、長く修行しながら成果を得られず、あるいは誤った見解に染まりながらも自覚できない状態にあるのでしょう。中には前世から誤った修行法に陥り、今生でもその慣性のままに過ちを繰り返す方もおられます。故に正しく仏法を実修し、真に悟証を得たならば、隔陰の迷いを恐れる必要はありません。今世で善根を培い福徳を積めば、来世における道業は速やかに増進するのです。
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