衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月12日    月曜日     第6 回の開示 合計31回の開示

意根と識の対比

問:意根にどのような暗示を与えても、それが正面的であれ反面的であれ、意根はそれを実現します。意根には道徳的認識がなく、善悪の感覚もなく、ただ慣習と習性のみを持っています。意識には道徳的拘束があり、羞恥心や責任感がありますが、これら全ては意根には備わっておらず、また備わることもありません。意根は直心であり、無始劫以来の行いの痕跡を蓄積しています。機が熟せばただ実行に移すのみで、その中に善悪・高低・責任・名誉・得失といった価値的拘束は一切存在しません。本能・直感・率性などは全て意根の体性であり、衒いも飾りもなく、虚偽や功利的要素を含みません。これは正しいでしょうか。

答:その通りです。意根は主に無記性であり、善悪の観念を知らず、是非を判断する力がありません。この点において、その了別慧は劣っていると言えます。意根は最も原始的な性質を持ち、原始的であるが故に純粋であり、また愚痴でもあり、直情的でもあります。過去にどのような熏習を積んだかによって決まります。

意識は狡猾で聡明な智慧を持ち、心が直ではなく、これも過去と現在の熏習内容によります。善にも悪にもなり、悪の面では意根よりも悪質化し、意根を唆すことがあります。善の面では意根よりも善良になり、意根を導きます。意識は計算高い性質を持ち、思考分析能力があるためです。他人が自分の秘密を探ろうとする時、意識は清明な状態では必ず隠蔽しようとします。しかし意識が不清明な状態では、意根は意識に唆されることなく、あるがままを表出し、隠すことをしません。なぜなら意根は善悪利害を判断できず、価値指向を持たず、真純であるからです。

——生如法師の開示
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