脚の気脈はますます通じ、座禅がとても楽になり、座る際にほとんど努力を要さず、少し調息するだけで空霊で柔軟な状態に入れます。その後、五蘊無我の念頭を心に懸けて参究し、座を下りた後は両脚に喜楽が生じ、非常に心地良く感じます。朝目覚めると、身体全体が喜びに満ち、腰・手足・心口・喉のエネルギーが充実し、身体の細胞全体が喜び、気血が充実しすぎて膨張感さえ覚えます。エネルギーが過剰になると負担に感じるため、通常は起き上がって歩き回り、凝集したエネルギーを消散させます。頭脳も非常に軽快で明晰に感じ、清らかな気が頭頂へ昇っていくようです。
少食の状態を維持し、本日から休暇終了まで米・麺類などの食物を摂取せず、腸をさらに空にします。座禅に阻害が生じる主因は五蘊の覆い、すなわち身心両面の要因であると感じます。まず身体の気脈が十分に通じず、エネルギーを効果的に蓄積・向上させられないこと。さらに心が清浄でなく、思慮が錯綜し、法義に専一に思惟できないため、功夫の進展が遅くなります。よって身心両面から覆いを取り除く必要があり、真に努力すれば必ず効果が現れます。日常の雑事に巻き込まれ無自覚のままでは修行が向上しません。意識の警戒心が重要で、意根が熏習される前に意識が頻繁に注意喚起し、精力を正道に集中させ、決して放漫にしてはなりません。
身体を清浄にし、頭脳の思慮を澄ますことは比較的難しくありませんが、我見を断つことは真に困難です。意根が極めて頑固で、日常の夢境から観察できるように、夢中で自己保身の心構えや情緒が生起することがあります。昼間は自己欺瞞が可能で内心清浄のように感じますが、夜の夢で意根の細かい計算が止んでいないと気付き、功夫が表層に留まっていることを知ります。さらに深入りする必要があり、道程はまだ長いのです。
評:これは喜覚支の段階に至った修行です。七覚支の助道品:念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・猗覚支・定覚支・捨覚支。七覚支は環状に連なり、前段階の覚支がなければ次に進めません。喜覚支が現れる時は心に喜び身に楽が生じ、その後軽安覚知・定覚支を経て最終的に捨覚支に至ります。
身楽の初期段階にあるならばそのまま持続させ、急いで消散させようとせず、功夫が自然に転換推進するのを待ち、人為的な干渉を過度に加えないことが最良です。ただこれらの覚受に執着したり気を留めたりして功夫の進歩を阻害しないよう注意します。軽安覚支と定覚支が未発生の段階では、覚受を空じ捨てることはできません。この時は自然体を保持し、身体の楽触と覚受に随順すべきで、そうしなければ後の覚支も現れません。若い時は身体条件が良く修道が速く進みますが、年齢を重ねるほど困難になるため、修道は早い程良いのです。
また禅定中の五蘊無我の観行において、心に懸ける法義の内容は過多・複雑にせず、できるだけ簡潔単一にし、一点一点深入りします。多くを貪れば咀嚼消化できません。無我を観じる際は五蘊の構成要素を分解し、一つの側面から観行を開始し、具体的な法義を心に懸けることで観行が過度に困難になりません。最初から五蘊無我という大きな念頭を懸けないこと。この段階では意識も意根も能力が限られており、これほどの大課題を処理できません。能力が向上し巨視的観行力が増した後で、五蘊十八界の無我性を総体的に観行すれば消化できるようになります。
意識で証果したと称する方々にお尋ねします。このような覚受を経験されたことはありますか?このような体験はあるのでしょうか?恐らく夢の中でも見たことがなく、ましてや実体験などあり得ないでしょう。七覚支の最初の覚支すら発起しておらず、定覚支・捨覚支は影も形もないのではないですか。七覚支を飛び越えて果を証するなど、八正道を飛び越え、三十七道品を飛び越えて果を得るなど、実修の影すらない状態でどうして三縛結を断じ、どうして実証を得られましょうか。三縛結を断たずしてどうして明心開悟できましょうか。各団体・各人が実修実証のレッテルを貼りつつ、三十七道品の修行を飛び越えて、どうして実修があると言えましょうか。名誉のみを求め結果を顧みない、これが現在の学仏者の心構えです。
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