衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年02月26日    土曜日     第1開示 合計3572開示

心は牆壁の如くして道に入るべし

<h2 style="text-indent: 2em;">問:ある日の夜、睡夢の中で禅定に入り、心は明々朗々で、周囲の人や物事がすべてはっきりと分かるのですが、同時にこれらの人や物事はまるで自分とは何の関わりもないように感じられ、自分に影響を及ぼすこともできないように思えました。自分はまるで真空の中にいるかのようで、心中には一片の雑念もなく、法義を思惟する一つの念だけがあり(具体的にどんな法義だったかは覚えていません)、それはまるで一つの太陽がぽつんと空に照っているだけで、烏雲が一片もないような感覚でした。同時に全身心がこの上ない軽安と快適さを感じ、ようやく禅定の中とはこんなに心地よいものなのだと分かりました。目覚めた後もその心地よさを感じ取ることができました。もしこのような禅定があれば、本当に二度と世間の享楽を貪ることはなくなるでしょう。あの感覚は非常に軽安自在で、世間の五欲の楽とは比べものになりません!師匠にお伺いします:なぜ夢の中に、現実では経験したことのないこのような境地が現れたのでしょうか?</h2>

答:このような夢の境目は、禅定の中で参禅している状態であり、定もあり慧もあり、止観双運です。あなたは過去世にこのような禅定を修めたことがあり、それは未到地定 (anāgamya-samādhi) です。意根は前世に経験していて、記憶があり、今は心の中で憧れていて、このような禅定の境地をまた経験したいと思っています。しかし現世の生活は比較的忙しく、修定の因縁も具足していないため、意根はやむなく夢を見て、夢の中で禅定と参禅の楽しみを味わっているのです。意根もなかなか可哀想でやるせないようです。現代社会はあまりにも繁雑で、なんと繁雑な生活を絶って一心に修道することができないのですから。

夢の中では、意識は清明な無念の状態にあり、明々了々で、念頭がなく、未到地定 (anāgamya-samādhi) の中にあるはずですが、意根は起用して法義を参究する状態にあり、仏法を思量 (manasikāra/manana) しています。このように仏法を思量 (manasikāra/manana) してこそ、根本の問題を解決でき、道を証することができるのです。参禅の参究とはまさにこのような状態であり、心中に一片の雑念もなく、外境は心に入らず、心は銅壁鉄壁のように如如不動です。達磨祖師は「心の壁の如くして、道に入ることができる」と言いましたが、言っているのはまさにこの意味です。禅定と思惟がこの程度に達しなければ、道を証することは期待できません。

意根のこのような思量 (manasikāra/manana) 参究の状態は、極めて静かな環境条件の下でのみ生起し、しかも連続して絶えることなく保たれ、深細な、極めて深細な法理を参究し出すことができるのです。だからこそ、真の修行人は一切の外縁を断ち切り、絶対的な孤独と寂しさの中にあり、孤無等侶です。修道とはもともと孤家寡人が行う大事であり、憒鬧の中で仲間と共にいて成就できるものではありません。寂しさに耐えられない人は正しい修道の道を歩むことはできません。禅定は煩悩を降伏し断除することができ、軽安・喜び・楽しみを得ることができます。修道ほど人を楽しませるものはありません。それゆえ、禅定のある人はみな世間法を好まず、心は世間に着せず、財色名食睡や名聞利養を追求せず、権勢や地位を好みません。世間法に貪ることは実に賢明とは言えない行為です。

十数分間でも雑念なく法義を思惟することができれば、証果明心できると言う人がいますが、こんな言い方はまったくふざけた話です。これほど短い時間では仏法を思惟しても、深く細かい思惟は根本的に不可能であり、参禅の定慧等持の状態に修めることも不可能です。例えば大きな鍋一杯の湯を沸かすには一時間かかりますが、五分や十分で火を止め、翌日また続けて沸かすとしたら、こうして一年、十年連続で沸かしても、この鍋の水を沸かすことはできません。このように仏法を児戯とし、仏法をもてあそぶ果報は相当に不善です。もし仏法がこんなに容易に修め証できるなら、なぜこれほど多くの三悪道の衆生がいるのでしょうか?世の人はみな投機取巧(手っ取り早い抜け道)を好みますが、投機取巧の結果はかえって自分を害することになります。一分の耕耘に一分の収穫あり。何らかの成就を望むなら、身心を放捨し、惜しまず功夫を下さなければなりません。

——生如法師の開示
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