意根と意識の関係は、人と顕微鏡・拡大鏡の関係のようなものである。人間の視覚には限界があり、非常に微細な物質色法を識別できないため、精密機器を利用して観察を補助する。人と精密機器が同時に観察するとき、精密機器がどの程度まで観察したかによって、人が識別する範囲も決まる。精密機器がどれだけ観察したかで、人はそれだけを識別する。同時に人は、機器の識別結果を参考にし、機器が反映した内容に基づいて観察対象について思考・判断を加え、段階的に機器の観察方向・角度・位置を指示し、最終的に総合的な結論を導き出し、総合的な決断を下す。
意根を人に例え、意識を人が利用し支配する機器に例える。あまりに微細なものについては、意根は意識による観察・分析・思考・判断を介してのみ認識できる。意根は意識の働きを基に自らの思索と判断を行い、結論を出してから決断を下す。その後、六識(六つの認識機能)がそれに従って実行する。
もし接触する物質色法を自分自身で識別できるなら、わざわざ精密機器を頻繁に用いる必要はない。なぜならこれはかなり煩わしいからである。意根が接触する法を大まかに識別でき、あまり微細な識別を必要としない場合、意識を動員して観察・識別を補助する必要はなくなる。そうなると、意識は意根が実際に何を識別したか、その心の働き(心行)がどのような状態か、どのように処理したかを知ることができない。意識が妙観察智(優れた観察の智慧)を持たない限り、意根の心行を知ることはできない。
このことから、意識の一挙一動は意根の支配から離れられないことがわかる。ただし、意識が意根を欺き、意根を説得して自らの行為・造作を承認させられる場合は別である。それはロボットが人間の支配から脱しようとするのと同様に、非常に難しいことだ。予期せぬ状況、すなわち人間がプログラムを適切に設計しなかった場合やプログラムが混乱した場合を除いては。もし意根と意識の内在的関係、それぞれの機能と役割を明確に区別できれば、自身の修行をよく把握し、智慧を増長させ、道業(悟りへの歩み)の進展を促進することができるだろう。
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