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日常法話

2022年03月09日    水曜日     第1開示 合計3583開示

瑜伽師地論第九巻十二因縁釈(十)

原文:于因无知云何。谓起不如理分别。或计无因。或计自在。世性士夫中间等不平等因。所有无知。如于因无知。于从因所生诸行亦尔。

解釈:于因無知とは何か。五蘊の世間が生ずる原因に対して、如理でない分別を起こすことである。あるいは、有情の衆生は無因であると計着したり、あるいは大自在天の所作であると計着したり、あるいは何らかの神霊の所作であると計着したり、あるいは神我の所作であると計着したり、さらには種々の神明・造物主の所作であると計着したりするなど、これらの造物主が衆生を創造したと計着することが、衆生の不平等な生起の原因である。五蘊の世間が生ずる原因に対するすべての不知が、于因無知である。業因に対して無知であるのと同じように、因から生ずる諸行に対しても同様に無知である。

五蘊の世間の生起と由来を知らないのだから、五蘊の諸行の生起と由来も知らないということになる。五蘊の世間の生起は、二つの角度から観察する。一つは小乗の空の角度から観察すること、もう一つは大乗の如来蔵・阿頼耶識(異熟識)の角度から観察することである。もちろん、異熟識の角度からの観察が最も究竟の観察であり、最も真実に観察でき、生因無知と了因無知の一切を滅除し、一切の無明を滅除することができる。

原文:又彼无罪故名善。有罪故名不善。有利益故名应修习。无利益故名不应修习。黑故名有罪。白故名无罪。杂故名有分。于六触处如实通达无知云何。谓增上慢者。于所证中。颠倒思惟。所有无知。如是略说十九种无知。

解釈:諸行が無罪であるものを善法と名づけ、有罪であるものを悪法と名づける。自身にとって利益のあるものは修習すべきであり、利益のないものは修習すべきではない。作った業行が染汚しているので有罪であり、作った業行が清浄(viśuddha/pariśuddha)であれば無罪である。有情の業行の染汚と清浄が入り混じっているので、区別を設けるべきである。

于六触処(ṣaḍāyatana)の如実通達に対する無知とは何か。未だ得ざるを得たりとし、未だ証せざるを証したりとする増上慢の人々が、その修証の過程において顛倒した思惟(manasikāra/manana)をなし、六触処を如実に知ることができず、六触処の真実の理に通達できない、六触処に関するすべての無知が、于六触処如実通達無知である。以上の無知を略して言えば、全部で十九種ある。

増上慢とは、増上果に対して慢心を生じることであり、増上果とは一般に小乗の初果須陀洹から四果阿羅漢までを指す。聞・思・修がある程度に至り、慧力 (prajñā-bala) が増上すると、法を証し、心はそれに対応する果位に相応する。ところが証得していないのに、自分は証得したと思い込むことが、増上果に対する慢であり、増上慢と名づける。増上慢の人は実証がないので、六触処に通達しておらず、六触処を如実に知らない。六触処とは、眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処である。六触処には六根と六塵の触があり、その後に六受が生じる。六入処(ṣaḍāyatana)・触・受に通達せず、如理に思惟観行 (vipaśyanā-caryā) しないことが、無知である。

——生如法師の開示
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