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日常法話

2019年01月30日    水曜日     第3開示 合計1219開示

意根の非量認知

非量とは事実に合致しない認識であり、この事実も異なるレベルに分かれます。真の事実とは法界の実相であり、一切の法は如来蔵の本性です。世俗法における事実の真相は六塵の外相分であり、本質境と呼ばれ、すべての如来蔵が共同で協力して顕現したもので、第一次の成相です。この本質境に依って、個々の如来蔵がさらに単独で伝導・変現して性境を生じ、後脳の勝義根において成相するのが第二次の成相です。

実際、この相は第一次に成った相とはある程度の差異があり、おおむね同じです。なぜなら、様々な介子(媒体)の間を経由して伝導される過程で、四大の微粒子が介子によって阻害され、介子を通過した後、四大微粒子の数量と構造に変化が生じるからです。伝導過程が長ければ長いほど、介子が密集していればいるほど、四大微粒子に生じる

変化は大きくなり、物質は元の状態との差が大きくなります。そのため遠くの物体は私たちの目にはあまり鮮明に見えず、ぼんやりと感じられるのです。

このように第二次に成った相も事実の真相と呼べますが、相対的な実と真です。五識と六識はこのような相貌を了別するもので、もし明確に了別でき、第二次に成った相に合致するならば、それも現量による了別です。もし第二次に成った相を誤って歪曲して了別するならば、それは非量です。もし他の参照物と比較しなければ明確に了別できないならば、比量による了別と呼ばれます。

一方、第七識(末那識)はこれらの相をすべて自己の所有物と見なし、すべてを実在として執着を生じるので、さらに非量による了別です。一切の法を「我」および「我の所有物」と見なすことは非量の境界であり、智慧がありません。観行を通じてこれらの法が実在ではなく、「我」や「我の所有物」でもなく、すべて如来蔵が顕現したものであり、すべてが無我であり、生滅幻化して虚妄であることを証得する必要があります。そうすることで初めて意根の非量認識を滅除し、大智慧を得て、これらの法に束縛されず、大解脱を得ることができるのです。

ところが、ある人々は意識の我見を断除すればそれでよい、意識に明心見性させればよい、意識に解脱の智慧を得させればよいと強く主張しますが、どうしてそれでできましょうか。明らかに意根の無明が世間の一切の法を演化し、それによって意根を生死輪廻から繋縛しているのに、単に意識の無明を断除したところで何の役に立つでしょうか。意根は生死の根です。根を掘り起こさずに、意識という枝葉を刈り込んだところで何の意味があるでしょうか。

——生如法師の開示
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