衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年08月17日    水曜日     第2 回の開示 合計3665回の開示

我見を断たずに直接参禅してもよろしいでしょうか

問:我見を断ってから参禅し、真心を証悟しなければならないのでしょうか。我見を断つことについてあまり認識がない人が、直接参禅を試みた場合、参究が成功して真心を証悟すれば、自然に世の中の全てが無常であると見えるようになるのでしょうか。一つの真実を知れば、他の全ては自然に虚妄となるからです。

答:前世の基盤が良く、空と無我について一定の認識と体得がある特別な人々は、直接参禅することが可能です。参禅の過程でまず我見を断ち、その後明心に至ります。大多数の人は基盤が弱く、自我への執着が強すぎるため、参禅時の障りが重く、真の明心開悟が困難です。おそらくまず我見を断つ必要があり、その後参禅すべきでしょう。我見を断たずに直接参禅すると、最良の結果は解悟に留まり、表面的には良い結果に見えても実用的な価値は大きくありません。

解悟の状態では、二つの自我が並列して存在し、矛盾しないため、かえって我見と煩悩を増長させます。解悟の「解」は推理に相当し、実証ではないため我見を断たず、真心を別の自我と捉えてしまいます。これは修行にとって大きな障害となります。従って我見が重い人は、まず我見を断つことに注力すべきです。我見を断ち、障りがなくなれば、真心を証得しやすくなります。

大多数の人は解悟にも至らず、解悟さえ容易ではありません。真に解悟した場合、禅定を修め、禅定中に意根で再び参禅するか、自らの理解を検証すれば、因縁の時節が至った際に証悟へと転じます。前提条件として戒定慧を円満に修め、三十七道品と菩薩の六波羅蜜を具える必要があります。真の解悟を得た時点で大方向は明確になり、修行は速やかに進みます。ただし真の解悟を得られる者は稀で、多くは理解のみで悟りに至りません。

理論的な知見を構築することは、実際の修行に比べると極めて容易です。他から学んだ知見の場合、両者の難易差は十倍以上になります。自ら修行しながら模索して得た知見であれば、その差は十倍以下です。修行時は主に自身の定慧に依拠し、模索する過程がそのまま実践修行となります。方法論を見出し、功夫が熟せば、見道も早まります。

——生如法師の開示
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