衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年02月16日    木曜日     第1開示 合計3861開示

業種と習気の関係

業種と習気の関係は、その理が非常に深奥であり、唯識の種智の範疇に属します。習気とは、長く習慣となった法が気候を成し、習慣となって、その習慣によって身口意を主宰するものです。業行を造作した後、さらに種子として存入されると、業種が深まり、重くなり、今後の習気をいっそう重いものにします。

習気もまた業種から来るものであり、長い間かかって習となった以上、必然的に業種があります。習気は意根によって現じゅつされ、意根は六識の身口意行を主導し、造作した後に業種として存入され、後世に現行するものを習気と呼びます。業種は、意根が主導して業を造ることによって形成されたものであり、意根は完全に業種と相応しています。意根がどのような性質であれば、業種もそのような性質となり、業種がどのような性質であれば、意根はそのような性質の業行を現行します。無我の業種を残したいなら、どうすればよいのでしょうか。無我の習気を形成したいなら、どのように修行すべきでしょうか。後世で生まれながらに五陰世間を空と観じたいなら、今世でどのように修行すべきでしょうか。

須菩提は母の胎内にいるとき、すでに世間が空寂であることを知っていました。この習気はどれほど深いものでしょうか。修行によって空を証得した時間が無量劫を超えており、これほど長い間、心は空であったのですから、当然、空という良い習慣は無量劫もの間続いたのです。須菩提の心が空である習気は、今世の意識の薫習とは少しも関係がなく、意識が現れていないときから意根はすでに空であったのです。このような心の空は、なんと軽やかで自在な解脱でしょうか。

理論上の空は、俗法に直面すると空ではなくなり、死ぬときにも空ではなくなり、死後にはなおさら空ではなく、後世には空にすることができません。したがって、理論上、夢幻のようだとか、真如法性だとかいったものに安住していても、それはすべて自己欺瞞であり、何の役にも立ちません。事が差し迫れば、なすべきことをなす通りにし、臨終には死ぬべきように死ぬのであり、生死の問題を解決することはできません。理論上のこうした理解は、事に遭遇するとたちまち正体を現し、本来の姿をさらけ出してしまうのです。だからこそ役に立たないと言われるのです。意根で証得した後は、業種が形成され、生生世世にわたって受用があり、事に遭遇しても正体に戻らず、受生するときにも迷いません。もし住胎のときにも迷わず、出胎のときにも迷わず、成長の過程でも迷わないのであれば、それは恒時に解脱しているのです。

——生如法師の開示
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