衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月09日    土曜日     第2開示 合計1246開示

意根を推崇することは実証を推崇することです

末法の時代において、なぜ意根の本質・機能・作用を多く示し、意識とできる限り区別する必要があるのでしょうか。末世の衆生は浮ついており、善根が浅く、貪欲が強く、福徳が薄く、戒律を守ろうとせず、持戒は難しく、禅定も難しく、心が清らかでないからです。仏教を学ぶ者は概して知識の習得を主としており、学んだ理論を、意識の感情的な思考や解釈を実証と見なし、推測や推理によって導き出した結果を実証と見なして、自ら誤りを犯した上で他者をも誤らせ、共に大妄語の業を造り、共に三途の火の穴に堕ちてしまうのです。もし意根の本質を理解すれば、実証の様相と情思意解との区別が分かり、実証の要所や肝心な点を理解すれば、このような誤りに陥ることを避けられ、大妄語の罪業を犯すことはないでしょう。

仏陀の時代の衆生は善根福徳が厚く、煩悩が軽微で、心が清らかであり、禅定の力が強かったため、理論部分を学び終えると、自動的かつ自覚的に深く細やかに思惟観行し、実証は比較的容易でした。深甚な禅定があったため、学んだ教えはすべて意根の深層に浸透し、証果すればそれは真の証悟であって、意識の偽りの証悟ではありませんでした。さらに仏陀が確認と証明を行い、仏陀の智慧と神通力は無限であり、証明は極めて正確で何の誤りもなく、弟子を誤導して未証の者に証したと言わせるようなことはなく、弟子たちの道業を損なうことはありませんでした。

明清朝以前の出家者や在家者でさえ、深甚な禅定を持つ者が多く、禅定を修する環境条件は比較的良く、特に唐宋の時代には、仏教を学ぶ者は皆禅定を重んじ、禅定があれば観行思惟を行い、学んだ理論が正しければ実証は比較的容易であり、情思意解の現象は非常に稀で、証すればそれは実証であり、ただ経典の理論が得難いだけでした。したがって、当時の衆生は意根の機能作用を理解できなくても、依然として実証することができたのです。

現代の世の中の修学環境では、多くの人が戒律を守ることができず、禅定を修めることもできず、ただ理論知識の学習を主とせざるを得ません。このようにしては実証できず、実証できなければ実践もできず、多くは口先だけの禅となり、道理を立派に説き、雄弁に語っても、心は道に相応せず、貪・瞋・痴は依然として盛んです。禅定がなければ、煩悩を降伏させることも抑えることもできず、どうして煩悩を断つことができましょうか。そのため仏教団体内部は世俗界よりもさらに乱れ、争いはさらに激しく、世俗界の名声や利養に執着するだけでなく、仏法上の個人の利益にも執着するため、煩悩は世俗界よりも甚だしくなっています。

この「聖人」が溢れ、偽りの印章が乱造され、欲望が横行する時代において、持戒と禅定を強調し、意根による実証を強調して、未証の者に証したと主張する大妄語者たちが命終して三途に堕ちず、他の学人たちが火の穴に入るのを防ぐ必要があるのです。

——生如法師の開示
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