衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年02月28日    火曜日     第4開示 合計3882開示

意識が単独で法について思惟・分析・理解・推理を経て知ることは、現量智と言えるでしょうか

意識による思考推論から導き出された結論は、実証されたものではなく、自ら証得したものでもなく、真実で使用可能な証拠による裏付けがなく、内心の疑念は断たれておらず、一定の時を経てこれと矛盾する事実に遭遇すると、自らが以前に下した結論を悔い改めて覆すことになる。そして末那識の内心に深く根ざした疑念は、意識に智慧がない時には到底発見できず、ゆえに意識の推論は疑いを断つことができず、末那識に信を生じさせることもできない。それでは実用にもならず、受用も得られない。

たとえ推論の結果が完全に正しく、100%正しかったとしても、それは非量である。なぜか?例えば、あなたが「私があなたの物を盗んだに違いない」と推論し、実際に私が盗んでいたとしても、あなたが自ら目撃しておらず、自ら捕らえてもいなければ、あなたの推論は何の役にも立たない。裁判所はあなたや誰かの推論を根拠に私に有罪判決を下すことはない。たとえ私自身が盗んだことを認めたとしても、自らが盗んだことを証明する有力な証拠を提示できなければ、裁判所は有罪とすることはできない。ある人々は、縁のある人の罪業から逃れさせるため、自ら進んで代わりに罪や罰を受けることを望むが、もし真実で説得力のある証拠がなければ、たとえ裁判所に出頭して自ら罪を認め、「自らが犯した罪業であり、他人とは無関係である」と認めたとしても、裁判所は一方的な供述だけを根拠に有罪判決を下すことはできない。

仏法において禅定を得ていない状態で、五蘊十八界の活動から第八識を推論し、第八識にはある種の作用、あるいは幾つかの作用があると想像したとしても、自ら証得していない以上、このような推論には功徳の受用がなく、何も変わらず、依然として我見は存在し続け、依然として三つの束縛(三縛結)が自らを縛り、命終えて三悪道に堕ちる果報を免れることはできない。たとえあなたが第八識を正しく推論し、その内容を五六分、六七分、七八分と想像できたとしても、それでも大智慧は生じず、依然として三昧の境地はなく、依然として功徳の受用もなく、依然として凡夫のままであり、このような想像や推論によって無明の煩悩が断たれることは永遠にない。

歴代の祖師方が用いた修行の方式と方法、歩んできた道は、絶対に正しく、現量に符合し、その成果は真実で信頼でき、仏教全体に極めて大きな正面的影響と推進力を与えてきた。祖師方の開示はすべて修証の真理を示しており、すべて実践から生まれた真知である。後世の衆生は福徳が薄く障りが深いため、祖師方のように身心を捨てて修行に励むことができず、多くは手抜きや小賢しい心が働き、皆近道をしようとする。修行とは自我を捨て去り、いかなる代償も顧みずに行うものであり、一体どこに近道などあるというのか?一歩でも道を歩まなければ、それだけ功徳も得られず、身心の体験も少なくなり、一層の損失を被ることになる。実際これは自らを欺き、さらに人をも欺く行為である。もし近道があるのなら、仏陀が私たちに教え導かないはずがあろうか?衆生がこれほど苦しんでいるのに、仏陀が衆生に早く仏道を成就し、回り道を少なくしてほしいと望まないはずがあろうか?

仏陀の教法に合致しない修行、仏陀の本懐に背き衆生の利益を損なう修行は、結局のところすべて破滅し、仏教から排除されることになる。それは単に時間の早晩の問題に過ぎない。

——生如法師の開示
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法住智は過去と未来を知るが、これは現量知であるか、それとも比量知や非量知であるか?

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