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日常法話

2019年02月12日    火曜日     第4開示 合計1254開示

観無量寿経 第一観

観無量寿経 第一観(下文に図版一あり) 原文:(仏説)如来今、韋提希(いだいけ)及び未来世の一切衆生に教う。西方極楽世界を観ぜよと。仏力の故をもって、まさに彼の清浄国土を見ることを得べし。明鏡を執るが如く、自ら面像を見るがごとし。彼の国土の極めて妙なる楽事を見て、心歓喜するが故に、応時にすなわち無生法忍を得ん。

仏、韋提希に告げたまわく、汝は凡夫なり、心想は羸劣(るいれつ)にして、未だ天眼を得ず、遠くを観る能わず。諸仏如来は異なる方便ありて、汝に見せしむることを得せしめん。

時に韋提希、仏に白して言く、世尊よ、我れ今者のごとく、仏力の故をもって、彼の国土を見る。もし仏滅後の後、諸々の衆生らは、濁悪不善にして、五苦に逼めらるれば、いかでかまさに阿弥陀仏の極楽世界を見ることを得んや。

仏、韋提希に告げたまわく、汝及び衆生は、まさに専心に一処を系念し、西方を想うべし。いかにして想い作すべきか。凡そ想い作す者は、一切衆生、自ら生盲に非ざれば、目ある者は、皆、日の没するを見る。正念を起こし、正坐して西に向かい、日に欲して没せんとする処を諦観し、心をして堅く住せしめ、専想を移さしめざれ。日の没せんとする状を見るは、懸鼓の如し。日を見ること既に已りて、目を閉じ目を開くも、皆、明らかにせしめよ。是れを日想と為し、名づけて初観と曰う。

釈:仏陀は、心力の羸劣なる者の命終して極楽世界に往生せんがため、衆生に一つの方便の方法を教えられた。それはまず西方に向かって日没を観想し、次に水観、地観を行うことで、三観成就の後、命終極楽往生が保証されるというものである。総じて十六観あり、各観には仏力の加護がある。もし衆生単独の観想のみで成就せんとすれば、甚だ難しい。仏の説かれるように、衆生の心想は羸劣にして観想力が弱いからである。何故に衆生の心想は羸劣で観想力が弱いのか。衆生は無量劫よりこのかた、業種深重にして世俗法への攀縁が多く、心思が散乱しすぎて、一つの事に全精力を集中できず、よって一つの事を成就し難く、ただ仏力の加護に頼って観想を完成せしめるほかないのである。

仏は説かれた。我れ今、韋提希夫人及び未来世の一切衆生に、西方極楽世界を観想せよと教える。仏力の加護の縁故により、現世においてすら極楽世界の清浄なる国土を見ることができ、あたかも明るい鏡を手に取り自らの容貌を見るが如く、極楽世界の勝妙荘厳の事を目の当たりに見ることができる。ここにおいて心に歓喜が生じ、内心の歓喜により、その時に無生法忍を得るのである。一切の法が自心によって幻化され、皆無生にして実在せず、この事を忍知するが故に無生法忍を得るのである。

仏は韋提希夫人に言われた。汝は今なお凡夫であり、心力は甚だ弱く、観想する能力もなく、天眼通もない。遠くを観ることはできず、ましてや極楽世界を観ることはできない。しかし諸仏如来には善巧方便があり、汝に極楽世界を見せることができる。

韋提希夫人は仏陀に申し上げた。世尊よ、私のように今、仏力加護の故に、極楽世界の仏国土を見ることができるのは幸いです。しかし世尊が滅度された後、後世の衆生は心性が濁悪不善で、生老病死の苦に逼迫されているならば、どうして阿弥陀仏の極楽世界を目の当たりに見ることができましょうか。

仏は韋提希夫人に言われた。汝とこれらの衆生は、専一の心をもって心を一処に繋ぎ止め、西方を想うべきである。如何にして想うべきか。観想を為そうとする一切の衆生は、生まれつき盲目でない限り、目があって色を見ることのできる者は、皆、太陽が西山に沈もうとする光景を見ることができる。汝らは正念を起こし、ただ一処を念じ、西に向かって端座し、太陽が沈もうとする所を仔細に一心に観察し、心をしてこの景象に非常に堅固に住せしめ、専らこの景象を観想して動揺せしめてはならない。この時、太陽が今まさに沈もうとする様子を見るべきであり、その形状は半空に懸かった大鼓のように丸いものである。落日を見終わった後は、目を閉じても開いても、落日の姿をはっきりと見られるようにせよ。常時見えて失われなくなれば、三昧が成就する。これが日想観であり、十六観の初観である。

原文で仏が説かれたのはこの趣旨である。我々が観想の便宜のため、太陽が沈む時にスマートフォンで動画を撮影するのは、動画の方がより鮮明で、観行の記憶を助けるからである。落日は白色ではいけない。経典には橙赤色、赤に少し黄色を帯びたものと説かれている。落日の真実の相はどのようなものか、実際に目で見て、よりリアルであるほど良い。西方の落日は、通常午後五時から六時頃のものであり、想像上のものや加工(P)したものは避ける。自分が比較的好む一種類を選定し、スマートフォンに保存して、長期にわたり観察し、長期にわたり観想する。何種類も観想してはならず、必ず専一にし、雑念を混ぜてはならない。そうでなければ禅定は生じない。また他の図案や背景を加えてはならない。図案や背景があると注意力が分散し、定を得にくい。画像は単調であるほど良い。我々は景観を鑑賞するのではなく、鑑賞の心があるのは、すなわち散乱心や貪愛の心であり、それでは禅定は得られない。

落日の景象を選び終えたら、毎日観察し、見終わった後は独頭意識で再び想像し思い出す。思い出すことが比較的堅固になり、常時思い出せるようになったら、次に目を閉じた眼前に落日の景象を見る訓練をする。目を閉じて常時落日が現れるようになったら、最後に目を開けても閉じても、眼前が落日となり、この景象が消失しなくなる。そうなれば日観三昧が成就したのである。

第三観が成就した時、仏陀は衆生の命終極楽往生を保証される。この期間中、禅定は永遠に失われず、この修法は非常に殊勝である。三昧成就の時、重罪は軽くなり、軽罪は消失する。故に全ての禅定三昧が成就する時には業を消滅させ、殊に浄土を修め仏力加護のあるものは更に業を消滅させ、かつ三昧の境界を保持して失わない。第七観成就の時には、三悪道の業は全て消滅し、即時に開悟し、十方諸仏が目前に立つのを見るのである。

これは意根を改め降伏させる方法である。意根が一旦降伏すれば、その後いかなる禅定を修めても、速やかに成就し、各種の三昧は一修して容易に成就する。日想観が成就した後、水を観じれば水観も速やかに成就する。その後は地観であり、地観が成就すれば、極楽世界往生が保証されるのである。

落日の景象を一種類選定し、長期にわたり観察し、その後思い出す。常時思い出せて失われなくなったら、次に目を閉じて常時眼前に現れるようにする。目を閉じて常時現れるようになったら、次に目を開けて見えるように訓練する。もし目を開けても閉じても常時落日の景象が見え、失われず散壊しなければ、第一観は成就する。第一観が成就すれば、第二観は容易に成就し、第三観に至るまで容易に成就する。極楽世界往生は保証される。第一観が成就すれば、他のいかなる観行を修めても容易に成就し、念仏三昧や明心見性も難しくない。比較的大きな罪業のある者でも、このように観行すれば、仏は既に罪を滅ぼし、かつ極楽世界に往生し、更に明心見性できることを保証されているのである。

——生如法師の開示
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