如来蔵は我でもなく我でないものでもなく、我であると同時に我ではない。この道理は甚深にしてまた甚深である。仏地に至る前の如来蔵には七識の染汚の種子が含まれており、種子の縁に随って染汚の業を生ぜざるを得ない。したがって、如来蔵の清浄なる徳行は遮障され、如来蔵本体の徳能と光輝を完全に発揮することができない。この時の如来蔵は常楽我浄ではなく、如来蔵の完全な自体光明を現すことができない。ただ常楽我浄の仏地如来蔵のみが七識の染汚による遮障を受けず、完全に自体の光明を揮発でき、真実の我、不変異の我、影響や遮障を受けない我である。例えば衆生の七識に三悪道の業があると、如来蔵は縁に随って三悪道を変現せざるを得ず、この時は如来の尊容や清浄なる仏国土を変現できず、機能が阻害され、我性は発揮されない。
五蘊は苦・空・無常・無我である。如来蔵が生み出す一切の法は生滅変異し、久しく長くはなく、執着すべきでなく、また執着することもできない。しかし衆生の如来蔵は苦・空・無常・変異ではなく、その心にも我はなく、我の存在を認めず、主となる我性を備えていない。心体にはなお生滅変異する染汚の業種が含まれており、これにより如来蔵は非常・非楽・非我・非浄となる。仏地の如来蔵である無垢識において染汚の業種が滅除され、種子が生滅変異しなくなって初めて真実の我性が現れ、真実の我となるのである。
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