真如には二つの意味があり、一つは真心の本体を指す、すなわち如来蔵であり、もう一つは真心の性質を指す、すなわち如来蔵の真実性と万法に対する如如不動の性質である。真如がどちらの意味であれ、無為である。しかし真如が心の本体そのものを指す場合、それは不生不滅である。真如が真心の性質を指す場合、それは不実の法である。なぜなら性質は本体があって初めて存在し得るものであり、本体こそが真実であるからだ。性質は本体に対する説明と表現であり、当然ながら真実の法ではなく、自在の法ではない。例えば衣服が本体であり、実在するものであるのに対し、衣服を形容する「美しい」「上品」「体に合う」「豪華」などの形容詞は衣服に依存して初めて存在し、その性質はあっても実体がなく、触れられず、着ることもできず、ただ鑑賞し感じるだけである。これらの形容詞が表現するものは全て自在ではなく、実在するものではなく、本体ではない。
真如も同様であり、もし如来蔵の本体の特徴を形容するために用いられるならば、「美しい」「上品」「豪華」といった形容詞と同じ性質であり、本体の代わりにはならない。自在の法は如来蔵の本体のみであり、不生不滅の法は如来蔵の本体のみである。一方、如来蔵の性質は仮に存在するものであり、人為的に名付けられたものであり、実在するものではなく、不生不滅の真実の法の本体ではない。
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