問:良くない境界が訪れた時(例えば悪口を言われるなど)、どのような対応が最も智慧にかなっているのでしょうか?懺悔すること、清浄心を保って如如不動のまま「凡そ所有の相は皆是れ虚妄」の原則に基づき境界を存在しないものとして争わず弁じないこと、あるいは全ての衆生に代わってこの逆境を受け入れ、全ての衆生が吉祥円満の善境界に出会えますようにと願うこと?それとも他の方法、例えば念仏でしょうか?
答:学仏の段階によって、逆境への対応方法は異なるべきです。また、異なる逆境によっても対応は変わります。違いはこうです――もし逆境が自身の無明煩悩や過去の業障によって引き起こされたのであれば、自らの過ちを検証し、因を明らかにして果を識別し、業障と無明を懺悔しなければなりません。自身に明らかな業障や過ちがある時に、如如不動でいるわけにはいかず、これらの境界を虚妄として無視することもできません。そうすれば無明が続き、愚痴が増長するだけです。そしてあなた自身が遭遇する逆境は自身の問題であり、自らが受け止めるべきものであって、衆生に代わって受け止めるものではありません。これは衆生とは関係がありません。あなたに何の過ちもない時に、逆縁が理由もなく降りかかってきた場合、自心の煩悩を降伏させるためには、外境を空と見て境界に対し如如不動を保ち、全てを受け入れる覚悟を持ちながらも、受けるところがない状態を目指します。
自身の煩悩が重く智慧も不足している時に逆境に遭ったなら、自心を内観し、自身の無明煩悩を検証すべきです。その前因後果を明らかにし、もし自身の問題だと判明したなら、速やかに懺悔して過ちを正すべきです。そうすることで智慧が増長し、無明煩悩が軽減されます。この時は逆境を空として扱ってはいけません。もし自身の無知煩悩を空じてしまえば、自らの無明煩悩を認識できず、智慧を増やし煩悩を減らすことができず、学仏は実効を伴わなくなります。智慧が著しく不足している時は、逆境を空と見て見過ごすことも、境界に対し如如不動でいることもできません。なぜならこの時は境界に愚痴しており、境界を明らかに理解していないからです。この時に必要なのは空慧ではなく、因を識り果を達する力、つまり因果関係を明確にすることで、悪を断ち善を修めることです。例えば、子供がまだ字を読めない時に、識字ということを空として捉え、努力して字を覚えようとしないわけにはいきません。是非善悪を弁別できない時に、是非善悪を空として見て弁別しないわけにはいかず、そうすれば愚痴が続くだけです。
大多数の人は世間及び出世間の理を理解しておらず、弁別力がありません。あらゆる行為規範や基準について曖昧模糊としており、非常に愚痴です。初学者の悪を断ち善を修める段階、因を明らかにし果を識る段階にあります。もし遭遇するあらゆる境界、あらゆる法を空と見て、大したことではないと軽視し、無視してしまうなら、因果を理解できず、自らの無明煩悩を認識できず、自らのあらゆる行為を修正できません。正思惟がなければ智慧を得られず、永遠に愚痴のまま、死後も三悪道で愚痴の果報を受け、特に畜生道での時間が長引くことになります。多くの人が学仏を逆さまに修めており、空じてはいけない時に無理に空じ、空じるべき時に空じないため、智慧がいつまでも生じてきません。自心の誤った思想を修正する時は、決して空じてはならず、安易に境界を見逃したり無視したりしてはいけません。自身と五蘊世間に対する認識がはっきりしない時は、これらの法について正思惟し、法に対する明瞭な認識を得て、愚痴に陥らないようにすべきです。
どのような状況下で境界を空じることができるのでしょうか?色声香味触に遭遇し、心に貪愛や執着が生じた時、この時に境界を空じれば、貪愛を降伏させ、貪瞋痴の煩悩を降伏させることができます。境界を余りにも真実の法と見做して捉えようとする時こそ、あらゆる手段を講じて境界を空じることを考えれば、空の法を捉えようとせず、それによって貪瞋痴の煩悩を降伏させることができるのです。
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