衆生は常に涅槃の中にいるのか、それとも無余涅槃の後に初めて涅槃に戻るのか。この問題を明らかにするには、涅槃の意味を理解しなければならない。仏教には、後世の人々によって絶えず拡張、派生、進化してきた名詞や用語があり、指す対象がますます広範で集中せず、意味がますます分散している。もし皆が一緒に法を論じる際、関わる名詞や用語が同じ対象を指していなければ、各自が自分の主張を述べるだけで、合意に至らない。涅槃という言葉は主に、如来蔵の不生不滅、不来不去、不増不減という清浄性あるいは清浄な状態を指し、次に衆生の如来蔵本体を指す。後者の意味は後世の人々によって進化したものである。
この問題では、涅槃に戻ると述べられているが、この涅槃は明らかに如来蔵本体を指しており、性質や状態を指すものではない。無余涅槃の後には、自性清浄の本心である如来蔵のみが残り、五蘊のいかなる法も存在しない。すると衆生は存在せず、衆生がいなければ、誰が涅槃に入るのか?誰が涅槃に戻るのか?涅槃に入る者もおらず、涅槃に戻る者もいない。
涅槃は清浄法界を表し、自性清浄心を表す。不生不滅、無形無相、内も外もなく、寂静不動であり、衆生は涅槃から出ることも入ることもできない。衆生と涅槃の関係は、衆生全体が即ち涅槃である。あたかも金器と金の関係のようであり、金器の形は千差万別であっても、全ての金器は内から外まで金以外の何ものでもない。金器が金に戻る必要があるという説は存在しない。衆生の五蘊身心のいかなる一法も、清浄涅槃心によって造られたものであり、実質は全て清浄涅槃である。再び涅槃に入る、涅槃に戻るという説はない。
衆生は涅槃を離れたことが一度もなく、永遠に涅槃を離れることもできない。しかし無明によって常に涅槃の中にいることを自覚せず、虚妄に四方に奔走し動揺し、妄りに生死輪廻の苦しみを受ける。したがって涅槃は戻る必要も入る必要もなく、衆生は無明に覆われているだけで、ただ認識していないだけである。ただ認識さえすれば、即時に清浄となり、即時に寂静解脱し、再び生死や束縛はなく、至る所が金である。どうして金器に執着する必要があろうか!
金器はその金質によって貴重さを現すが、金はその器形によってその功用が増減し、善悪の違いが生じる。金が装飾に用いられれば、粗末な家も輝き、金が糞を盛るのに用いられれば、汚れて見える。金が人命を救えば善業が築かれ、金が人命を傷つければ悪業が明らかになる。金を善用する者は仏であり、金を悪用する者は衆生である。仏と衆生は同じく金質であるが、用い方によって結果が異なる。
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