衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年09月22日    金曜日     第1 回の開示 合計4018回の開示

仏法は世間法よりも厳密で厳重ではないとは

法律上では、確たる証拠がなければ殺人事件を立件できない。人が亡くなったと直感で強く感じても、遺体が発見されなければ立件されない。明らかに犯人があの人だと確信していても、確実な殺人証拠がなければ逮捕できない。刑法における証拠は全て具体的で客観的に提示できるものであり、直感がどれほど正確でも採用されない。法律はそれほど厕密かつ厳格なのだ。

しかし一部の仏法解説はそうではない。推論、想像、思考、整理、帰納、琢磨、暗示——こうして作り出されたものが証果や悟りと呼ばれ、坐禅参究の成果と称される。証拠を求めれば推論が証拠となり、他人の暗示が証拠となり、琢磨すれば証拠が生まれる。仏法は琢磨に難くない。論理的思考さえあればよく、厳密な思考なら尚良し。厳密でなくとも、想像力さえあれば全てが成立する。畢竟、聖人の栄誉と名声は人を魅了し、追求に値するものであり、その手段は二の次なのだ。

論理的思考力を養いたい者は刑事事件の捜査事例を学び、哲学書を読み、心理学を修めれば思考は開ける。事件捜査の過程には厳密な論理思考が求められ、証拠と組み合わせて初めて解決に至る。しかし証拠が不足していれば、論理が如何に厳密でも採用されない。論理思考は証拠収集の方向性を示すが、証拠なき状況ではいかに完璧な推論も用いられず、冤罪を生む危険がある。

禅定中の意識思考が捜査のように厳密で論理的ならば、意根が法義を思量する際に悟りへ至りやすいだろうか。これは意識が思考する内容による。意識思考の役割は、意根が法義を思量する方向性と大枠を示し、仏法の全体構造と思想の脈絡を整理し、意根を参究状態に導くことにある。意識は法義の細部まで思考すべきではなく、それは意根が参究すべき領域であり、最終的な答えは必ず意根の参究によって得られる。意根と意識の作用は拮抗関係にあり、意識を多用すれば意根の働きは弱まり、意根の智慧は意識では代替できない。

——生如法師の開示
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