衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年12月10日    日曜日     第1開示 合計4072開示

悪名を畏れることも悪名を畏れないことも、いずれも衆生に対する庇護である

『正法念処経』第六十一巻原文:如是恶人。比丘一切不应亲近。何以故。近如是人。失比丘法。世间之人。作如是念。如是比丘。近如是人。必与同行。与如是人习近共行。生一切人如是之念。是故比丘当畏恶名。不应与此不净业人同路。行于一足之地。
解釈:仏はなぜ比丘に悪人を避け、悪名を畏れることを求めたのでしょうか。比丘は出家の僧であり、三宝を代表するもので、衆生の依り所だからです。比丘が悪人と同行すれば、名声が影響を受け、衆生に嫌われ、衆生が三宝を尊崇せず、三宝を恭敬し信頼せず、さらには三宝を誹謗して悪業を作ることになります。それゆえ仏は、比丘が上述の種々の悪人を回避し、巻き添えを食って悪名を落とし、衆生に嘲笑・嫌疑をかけさせないようにすべきだと説かれたのです。したがって比丘の一切の行いは律儀に適い、規範に適合していなければなりません。もし衆生を度すためであっても、他の衆生に誤解させないよう工夫して避けるべきであり、誤解を生じるおそれのあること、説明のつかないことは、他人に知られないようにすべきです。これは大人の物事の処理にたとえると、子どもの知恵ではどうしても理解できないことなら、極力避けて、子どもに知られないようにするのと同じです。衆生はまさに子どものようなものです。どうしようもありませんね。成長すればよいのです。
また、衆生を度そうとする菩薩にとって、これらの悪人との縁が熟して度す必要が生じたなら、善巧方便を用い、方法を適切にして、衆生に誤解させて誹謗させることを極力避けなければなりません。このようなことは、智慧の足りない人には円融に処することができず、大智慧者だけが成し遂げられます。衆生には種々の煩悩と無明があり、付き合いにくいからです。もし悪人との縁が熟していなければ、避けられるものは避けて、より重要なことをするべきです。精力には限りがあるのですから、取捨選択をし、利益が最大のものを智慧の抉択によって選ぶべきです。
仏は比丘には悪名を畏れることを求め、在家菩薩には悪名を畏れないことを求めました。両者とも衆生を庇護するためであり、問題の処理の仕方が異なるだけです。しかし菩薩は悪名を畏れないとはいえ、智慧をもって抉択しなければならず、悪名を畏れないからといって、何もかも気にせず、衆生と仏教の利益を顧みず、仏教に悪名を負わせ、多くの衆生に三宝を嘲笑・嫌疑させ、種々の悪業を作らせてはなりません。それゆえ弘法者は必ず身心清浄 (viśuddha/pariśuddha) で、煩悩が軽微で、私心なく無我で、仏教の大局を重んじ、衆生の利益を重んじ、清浄 (viśuddha/pariśuddha) な身口意行によって衆生を正しい道へ導かなければなりません。衆生を汚染し、衆生にさらなる煩悩を加えて、衆生を度すことが衆生を害することにならないようにしなければなりません。
在家者が菩薩道を行うにあたっては、度せる人はできるだけ度し、善法に薫染できる人はできるだけ薫染させます。ただ心中で警戒し、同化されず、逆に薫染されないようにさえすれば、これ以上の善はありません。仏が比丘たちに、表向き悪人と同行同事しないようにされたのは、衆生に誤解されて嘲笑・嫌疑をかけられ、さらには三宝を誹謗されるのを恐れてのことです。出家の身分は特殊であり、三宝を代表し、衆生の依り所であるため、衆生に嘲笑・誹謗を招くことはできません。もし比丘の自制力が強くなく、自ら未だ度されておらず、心が安らかでないなら、確かに悪人・悪事から遠ざかり、薫染されて同化されるのを免れるべきです。
煩悩を断していない人は、出家・在家を問わず悪に薫染されやすく、たとえ開悟した後でも不注意であれば、悪に薫染されることがあります。じょう (samādhi) の力と警戒心を保ち、智慧があれば薫染されにくくなります。完全に薫染されないのは真に仏地においてであり、八地以上の菩薩は薫染が極めて軽微で、初地から七地まではやや多く薫染されます。地前の菩薩が薫染されないようにしたいと思っても、煩悩を断していないので根本的にできず、凡夫は言うまでもありません。ですから、人は清浄 (viśuddha/pariśuddha) な団体の中にいればいくらか清浄 (viśuddha/pariśuddha) に薫染され、染汚した団体の中にいれば心も知らず知らずのうちにそれに従って染汚され、避けられないのです。私も薫染されるのが怖く、幼い頃から今日に至るまで、やはり薫染されてきました。それゆえ煩悩の重い人からは、私は極力避けるようにしています。薫染されないとしても、拒絶し引き合うのに骨が折れ、互いに不愉快になります。煩悩を断した後の菩薩が薫染されるのは、枝葉の微小な染汚であり、学仏した後は振り落とすのも速く、根本には影響せず、過ちを犯したことも一度懺悔すれば済み、受ける果報も軽微です。

——生如法師の開示
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