須菩提よ、どう思われるか。阿羅漢は『我は阿羅漢道を得たり』という念いを起こすことができるか。いいえ、世尊。なぜなら、実に阿羅漢と名づくべき法は存在しないからです。世尊、もし阿羅漢が『我は阿羅漢道を得たり』と念うならば、すなわち我・人・衆生・寿者に執着するに至ります。
仏が須菩提に告げられた:汝はこれをどう考えるか。阿羅漢は『我は阿羅漢果を得た』という念いを持つことができようか。須菩提は答えて言った:阿羅漢はそのような念いを持つことができません、世尊。なぜなら、実に阿羅漢と称すべき法は何一つ存在しないからです。世尊、もし阿羅漢が『我は阿羅漢果を証得した』と心に思うならば、彼は我相・人相・衆生相・寿者相に執着しているのです。
もし人が『我は如何ほどかを成し遂げた』と念い、真実に我が如何ほどかを成し遂げたと認めるならば、すでに我相に執着しているのです。他の三相も即座に現れます。阿羅漢もまた同様で、もし自らが阿羅漢果を証得したと認めるならば、心に我相が存在し、人相・衆生相・寿者相も明らかに存在するようになります。この人はもはや阿羅漢ではありません。世間には実に阿羅漢と呼ばれる法は存在しません。阿羅漢の色身と識心から成る五蘊は生滅変異し幻化するもので、実存する法ではなく、阿羅漢と呼ぶに足りません。阿羅漢果は一つの状態と境地に過ぎず、実質的な果を得たり見たりするものではありません。阿羅漢果を証することは幻化する生滅変異の法であって、実存する法ではありません。もしそれが実存する法ならば、恒常に存在し、修することなくして恒常に阿羅漢果を証するはずです。
よって阿羅漢には『我は阿羅漢果を証した』という念いはありません。阿羅漢果を証した後、内面は空寂であり、四相の影さえ存在しません。人間界を歩むもただ躯殻の如く、いかなる是非紛争もありません。凡夫はこれと反対で、我見が作用し四相が乱れ立ち、常に煩悩紛争の中にあります。我見が重い者ほど我相も重く、心は清浄さを失い、煩悩は増大し、是非紛争も多くなります。逆に我見が薄ければ清浄無為となります。
小乗の初果から四果に至る聖賢は皆四相を持たず、大乗の菩薩は更に四相に執着せず、同様に『我は明心した』『我は見性した』『我は十住位・十行位・十回向位の菩薩となった』などと考えることもなく、『私は初地菩薩』『二地菩薩』『三地四地乃至八地菩薩』などと宣伝することもありません。ましてや『私は某聖人の再来』『某仏の再来』などと広言することはありません。菩薩の心は声聞人よりも更に清浄です。畢竟大小乗の空を証得しているからです。声聞人はただ世俗相の空を証しただけで、自性清浄心を証得せず、世俗の空相・空法が何故に空であるかを知らないため、その空は未だ清浄を極めたものではありません。菩薩はこれらの不清浄で理に適わぬ念いを一切持たず、人々を籠絡するために宣伝活動を行うこともありません。実証した者の心は空寂で、いかなる法相にも執着せず、まことに敬慕と学習に値するものです。
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