人の達成感、自尊心、傲慢さや劣等感など、これらの感覚や感受は全て受覚受蘊に属し、我見に依って存在する。我見が無ければ、これらの感覚は消失し、我は空となる。これらの感覚は全て我相に属し、人相・衆生相・寿者相にも関わる。故に人が我見を断じたか否かは、これらの相から明らかに判断できる。我見を断じた者はこれらの現象を明確に見分けられるが、未だ我見を断じていない者も、我見と我相の内実と現れを理解すれば、おおよその判断が可能である。
我相と我見は身口意の行いを通じて現れるもので、隠蔽することは不可能であり、ましてや深く根付いた我をどう隠せようか。身口意の行いが無いのでない限り隠しようがなく、これは成し得ない。自ら無我を得た、我見を断じたと考える者も、この基準で己が我相を点検すべきである。微細なりとも我相が存在すれば、それは我相である。我の感受は色身と心理に分かれ、身覚と心覚も全て我相であり、我の有無は相から判断できる。微細な我相を有する者は我見を断ずるに近く、粗重な我相を有する者は我見を断じ難い。常に己が心中の我が軽やかであるか重いか、修行による変化があるかを観察すべきである。
もし人が初果が断ずべき我見すら断じておらず、我相が甚だしいならば、大乗の明心見性の果を得ることは不可能であり、ましてや三賢位や地上菩薩の証量と果徳を具えることはない。言葉ではなく、日常の行い、人や事柄への対応を見よ。身口意の行いが最も真実を表し、人の徳性を反映する。口先の論理は偽装可能で、全面的な信頼に値しない。
我見を断じた者は必ず我相が消滅軽減され、無我の境地で低調・真摯・平等に振る舞う。人を見下すことも仰ぐこともなく、自他に貴賤の別を認めない。この平等心は我相・人相の空性に基づく未だ究竟せざるもので、初地以上の菩薩は意根が識から智に転じ、平等性智を得る。小乗の平等心より純粋で勝れた平等心である。我見を断じた無我の者は我相・人相・衆生相が無く、心は空であり、内省的・謙虚に振る舞う。自慢や達成感を求めず、他人の評価を気にせず、決して高調に行動しない。高調に振る舞う者には必ず我見・我相が存在する。
多くの者の我見は重く、自我の消失を恐れ、存在感を求め自我の価値を確認し続ける。これらは明らかな我相であり、今生での我見断絶は困難である。無我を観じ始めた者も、自我消失の兆しに恐怖を覚え、観行を止めてしまう。
この段階では忍耐が必要で、意根を徐々に教化すべきである。無始劫来の我執は深く、急激な変化は恐怖を生む。我見断絶には意根の受容過程が必要で、緩衝期間を要する。修行には個人差のある過渡期が存在し、その長短は教化の工夫による。過渡期を早めるには、我執による罪業を懺悔し、楞厳咒を誦するか礼拝により仏菩薩の加護を求め、空の理法を深く思惟し続けるべきである。
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