問:「識の種子が生じて七つの識を形成した後、心所法が伴って運行し、識心に善・悪・無記の三性が生じる。」この心所法は意根に属する心所法でしょうか。意根には俱生と分別の習気があり、前六識は識の種子から生じる時には本来清浄であるべきですが、意根の心所法の影響を受けて三性が生じると理解するのは正しいでしょうか。
答:どの識が運行するかによって、その識に対応する心所法が伴います。意識は意根の調節と指揮を受けますから、意識が活動を始めると、その固有の心所法が現れる際には必然的に意根の心所法の影響を受け、意根の制御下に置かれます。意根が善を行おうとすれば、善の心所法が現れた後、必然的に意識の善の心所法を生起させ、意根の指令を完遂させます。悪の心所法や無記の心所法が現れる場合も同様です。
意根が布施を志せば、必然的に六識を指揮して具体的な作業を行わせます。この時、六識の生起は意根への協力を目的とし、布施という善行を実行するためですから、意識の心所法は生起当初から必然的に善であり、意根の心所法と一致します。もし意根が布施を望まなければ、この善行に関しては意識および意識の心所法が生起・運行することはありません。すなわち、識心の心所法が作動すれば必ず三性が現れますから、識心を清浄にするには根源である意根の心所法を清浄にすれば、他の識心もそれに従って清浄になるのです。
意根が殺人や放火を望めば、六識を生起させてこの悪事を完遂させます。殺人放火の具体的作業は六識なくしては達成できず、意根自らは操作できないため、六識が生起すれば心所法は必然的に悪となり、意根の心所法と一致します。故に意根は一切の善・悪・無記の心所法を具足しているからこそ、六識に全ての心所法を具足させて身口意の行いを操作させるのです。一部の説のように意根が心所法の一部しか持たないなら、多くの事柄について意根が主導権を発揮できず、意根が主導しない事柄を六識がどうして操作できましょうか。
意識の心所法は当初は意根と一致していますが、思惟を重ねて事の是非を認めた後は、心所法を改めて逆に意根を説得・薫染することもできます。意識が意根に背く場合もあります。例えば意根が悪事を望んでも、意識が躊躇して実行せず、考えを改めた後は意根の考えを変えることも可能です。これが意識の薫染作用です。意根を変化させるのは全て意識の薫染を通じてであり、ある事柄を経験する際、意識が利害を思考することで、意根は利害を知り、以後の行動に取捨選択が生じます。ただし意識の薫染速度には個人差があり、これは意識の智慧と善巧さにかかっています。
11
+1