意会とは意根による実証であり、言伝は意識と言葉を用いた解説である。無上の妙法とは最も優れた如来蔵の法であり、これは各人が自ら実証すべきもので、他人が言葉で導き啓発しても自らの実証に代わることはできない。実証には多くの因縁条件が必要で、戒・定・慧と福徳を具え、深い疑情を起こし、念々に参究を続け、意根に至る修行を積んで初めて如来蔵の妙法を実証できる。言伝はまず意識心に落ちるのみで、意根の修行が不十分であれば意根を触発できず、故に言伝は意根の思量と参究を代替できず、結局自証を得られない。
禅定と参究の修行が浅い時は専心して修行に励み、他人の見解を聞かず、経典や他人の理論を参考にすべきでない。これらは実証を妨げるからである。修行とは己の事柄であり、食事は食べた者が満腹する如く、仏法は参究した者が実証する。聴聞した法は盗み取ったものに等しく、自らのものではない。三昧の境地は自ら起こすもので、智慧は自心より生じる。三蔵十二部を学ぶも、自らの悟りに及ばない。修行者は大丈夫の如く勇猛精進し、自ら実践し、一切の便宜主義を断つべきである。
無上妙法が言伝できないもう一つの意味は、如来蔵という微妙甚深の法は言語で表現できず、如何に説いても説かれたものは彼(それ)ではなく、無説無示で指し示されるものも彼ではない。如何なる状況でも彼は表に出ず姿を現さず語らず作為せず、低姿勢で無我であり、姿勢すら持たない。このような法に対しどうすべきか。ただ実証と自証自悟によってのみその真実相を見ることができ、聴いたり見たりしたものは真実ではない。誰も法を伝えることができないなら、なお他人の指示を聞く必要があろうか。
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